第七話 夜長(七)
ああ、そうだった。なぜ忘れてしまっていたんだろう。私はおぞましい。
* * *
周平の血にまみれた幼子を湯で清め寝かしつけた後、大吾は陋屋の戸を開けた。
どす。どす。
夜明け。靄に包まれた野原、白い視界のなかにぼんやりと大木の影。痩せた長身の男が肩を大木の幹に打ちつけている。
「――周平」
大きく肩で息をつく周平が振り返る。瞳が縦長に細く縮む。右肩に赤黒い痣ができている。
「周平、すみません」
「いい」
「やはり次はわたしが。わたしなら白梅の治癒支援がありますから傷もすぐ癒える」
「いいといっているだろう。白梅に知られると困るといったのは大吾、お前じゃないか」
「でも――」
大吾が手を伸ばし、痣のできた肩に触れると、びくりと周平の身体が震えた。
「すみません」
「いや、いい。――子どもの頃はネズミが外れた関節を入れてくれていたんだが」
「圭一くんの行方は今も……?」
周平は振り払うように激しく首を振ると、大吾に向かい合った。
「それよりも大吾」
周平は陋屋に目をやった。
「あんなに幼いのに――それでも負わせるのか」
「周平、くどいですよ。そのためだけに――今のわたしがあるのです」
大吾には京子という愛人がいる。本妻との間に子は生せなかったが、京子との間に生まれた息子が結婚し、孫が一人いる。子にも孫にも事業を継がせる気はないと宣言して部下を安堵させた大吾だが、幼い孫の写真を持ち歩き、折に触れ取り出しては眺め脂下がる姿は好々爺そのものだ。剃刀と恐れられたかつての鋭さは見られない。しかし周平とともに陋屋に視線を向ける大吾は、「やはり年をとられたな」と部下に囁かれる会社での姿と様子が異なっていた。
「わたしの持てる知識、経験、技術、すべてを注ぎこんでも惜しくない。だから命を削って記憶野を拡張して、刻みこんで、封印した――」
大吾は熱っぽく語った。
「詩織は素晴らしい。あの記憶野の拡張に耐えられるだけでない。ハイブリッドチャイルドなんですよ。播種計画始まって以来初めての成功例です」
「でも――大吾」
「この星でただひとり、知恵者にいちばん近い姿をしたあの子を使ってあの呪われた播種計画に止めを刺す――痛快だ」
大吾と周平は、播種計画への憎悪で分かちがたく結びついた仲だ。
川向こうと呼ばれる、崩壊した拠点で成り上がった家令集団の長を利用する計画は本来、大吾が白梅荘で実行する予定だった。その計画を「島」破壊に変更して数十年。大吾は一度諦めた計画を入念に練り直した。多々良が浜をいったん離れ、東京で事業を興した。多々良が浜の屋敷を取り壊し、洋館を建てた。白梅に勧められるまま古参の乙女であった京子との間に子を儲けた。知力、胆力、人あたり、人あしらい、才能と培った実力、人脈、運すべてを傾注し思いどおりに事を運んできた。
「――あと少し。あと少しですべて詩織に封印できます。今までの――」
大人たちのいうとおり勉学に励んだのも、ライバルを蹴落とし財界でのし上がったのも、地元多々良が浜が潤うよう便宜を図ったのも、長命種としての寿命を削ったのもすべて。
「この子を送りこみ、白梅を破壊することで苦労が報われます」
「しかし大吾。お前の生命力が尽きてしまう」
「ですから、それはよいのです。計画のうちです」
「しかし――詩織は」
大吾は詩織が赤ん坊だった頃を思い出した。
詩織はハイブリッドチャイルドだった。生まれながらに後頭部に特殊な感覚器と触手を持っていた。赤子の後頭部から触手が伸び、絵本のページをめくり、花瓶の花に絡みつき、頭上で揺れる色とりどりのモビールにそっと触れる。この肉の花のような感覚器を長時間用いると必ず、詩織は高熱を発し、苦しんだ。
他の者にはただ赤子が発熱し、むずかっているようにしか見えない。しかし不思議なことに大吾には見えた。
――私と同じ精神干渉系の能力なのか……。
肉の花びらや触手に痣が浮き、しおしおと萎れるのが見えた。
知恵者の種族はその脆弱性ゆえにこの地の汚濁に耐えられなかった。多々良が浜に残る言い伝えどおりに汚濁に弱いその姿に大吾は戦慄を覚えた。まだ言葉もしゃべれない赤子に精神干渉で負荷をかけ、奇妙な感覚器を使わないよう暗示をかけた。身体を弱らせ、万が一にもはかなくなるようなことがあってはならない。詩織は大吾が待ちに待ってやっと生まれた孫だ。事業を継がせるために必要なのではない。人生の残り時間が僅かになってしまった大吾に代わって実験記録装置白梅を破壊するために。
脳の記憶野を強制拡張し、記憶を刻みこみ、封印するとどうしても幼い詩織は負荷に耐えられず惑乱してしまう。そうなると本人の意志と関わりなく感覚器を露出し、触手であたりのものを薙ぎ倒し、刺し貫く。幼子が部屋の調度を破壊するほどの力を揮うことよりも、大吾にとって気がかりだったのは幼子が体調を崩すことだった。他の誰にも見えないこの感覚器が露わになることで幼子の生命力が失われてしまう。
「詩織はどうするんだ。こんなことを続けていればいずれ耐えられなくなるぞ」
周平にいわれるまでもない。若い頃から何度も何度も読み返した白梅文書を大吾はもう一度さらってみた。それでも生命力の流失をせきとめる術は見つからなかった。まだまだ詩織に刻みこむ記憶が残っている。そのたびにこのように惑乱し発作を起こしていては命にかかわる。
しかし――。
この記憶の封印を中断すれば、今までの細密に構築し、封印解除の連鎖まで計算し刻んできた精緻な彫刻のような記憶群が意味をなさなくなる。そんなのは駄目だ。
がっくりとうなだれる大吾をじっと見つめ、周平はさっき大木にぶつけた肩をさすった。
「大吾。オレに考えが――」
* * *
散る。視界に朱が散る。
セピア色の、日焼けした古い写真のようなモノトーンの世界に朱が散る。
散る。鮮やかな朱。
やめて、やめてやめて。
ああ、酔う。血のにおいが濃い。
* * *
封印は解けた。記憶の箱、あるいは壺のようなものか――禍々しい気配を満々と湛えるそれに触ることができない。この先に何があるのか、思い出すのを心が、頭が、身体が拒絶する。がくがくと震える身体を抑え、私は縮こまった。後頭部から生える半透明の触手がのたうち暴れ回ろうとするのを意志の力で抑えこむ。
「触らないで」
ケイさんの手がぴたり、と止まったのを感じる。解放を求めうねうねと抗う触手をなんとかしまいこんだ。ケイさんはわなわなと震える私を背後から抱きかかえた。あたたかい。
「触らないでっていったのに」
大きい人は何もいわない。ただ頭にすりすりと頬ずりし続けた。日向のにおいのするぬくもりの中でいつしか震えは止まり、私は眠りの淵に落ちた。




