第六話 夜長(六)
まだボブカットにも至らない短い髪を太くあたたかな指が梳く。心地よさにうっとりしていると、低くて丸く艶やかで大好きな声が降ってきた。
「詩織の契約錠は左腕のひとつだけのようだが、周平の場合は違った。前腕にも上腕にもそれぞれ複数の契約錠が埋まっている。脚も同様だ。合わせてどれだけの契約錠が埋まっているのか、分からない。俺が周平の契約錠の脱臼を整復したのは身体が大きくなり始めて大人になるまでのせいぜい数年程度だった。だからあいつの身体を知り尽くしているわけではない。ただ」
大きな掌が頬を包む。
「周平の契約錠が脱臼するのは決まって凶暴化した後だった」
複数の獣化能力があるせいで凶暴化の周期がまちまちで、しかも体内の随所を刺激する身体変化の暴走によって他の獣化能力も刺激を受け、周期が安定しないという悪循環だったという。まだ身体の小さい幼かった頃ならば周囲の大人、成長につれて管理者であった養母のゴージャスさんの制止も受け付けなくなり、一番ひどかった思春期のころは大人がよってたかって攻撃してようやく鎮まる状態だったという。
「ひどい……」
「そうなんだ」
周平は彼を「島」に連れてきた大人たちの一団に常に囲まれ、複数の獣種が顕現した「王化」異能者だとちやほやされ、「王化」にふさわしく堂々としろと焚きつけられ、せっかく「王化」異能者に生まれついたのに獣種が華やかでない、「王化」にふさわしくないと非がないにも関わらず誹られた。
近世から近代、現代へと貨幣による経済が急速に人々の生活に定着し、それにともなって祟り神の子孫である獣化異能者の受け入れ家庭、婚家へのインセンティブの支払いも貨幣になった。「島」の資産は大きい。その富を分配しコントロールする立場を握ることが既得権益となる。「王化」異能者は拠点のリーダー特権を得る切り札のように思えたのだろうか。だからといって八つ当たりしていいわけがない。いじりまわしていじめていいわけがない。
「あの頃、『島』にいた子どもは周平と俺だけだった」
同じ女性を母と呼んでいるものの、兄弟ではない。ゴージャスさんは二人の交流を禁じなかったが、周平の取り巻きがそれを許さなかった。ライバルであると焚きつけられ、対立するよう仕向けられた。
「凶暴化は獣化してひとしきり暴れてしまえばおさまることが多い。しかし短時間であっても無軌道に暴れられると被害が大きいから、コントロールしながら周平の相手をしてやれ、と力負けしない俺が担ぎ出されるようになった。そうやってけしかけられてぶつかるときしか接点がなかったんだけど」
あるとき凶暴化がおさまった後、ケイさんは山の中で周平が一人ですすり泣いているのを偶然見つけたのだという。
「あの台風の日の朝、……きみの腕が変になったときのように、周平の腕もだらりとぶらさがっていた」
暴れる周平を抑えこんで偶然整復できたけれど、ちゃんとした知識も技術もないから痛がらせてしまった。「オレが憎いからこんな痛いことを」などとさんざんにケイさんを詰ったらしいが、きちりと嵌って整復に成功すると、目を丸くしていたそうだ。だからといって二人が親しくなったわけではなかった。しかしふたりの距離はほんの少し縮まった。姿が見えないと取り巻きが騒ぎ始めるとき、周平は決まって山の中でひとり、契約錠の脱臼に苦しんでいた。ケイさんはそっと抜け出して山へ向かい、お互い無言のまま契約錠の脱臼を整復し、そして別々に拠点へ戻る。そうした関係が数年間、続いたのだそうだ。
何かがおかしい。身体がわななく。
――だいじょうぶ、だいじょうぶ。
ケイさんの大きな手がなだめるように背中をゆっくりと撫でる。身体の震えが止まらない。まただ。
――台風の、あの日の朝と同じ。
頭の奥で何かがゆっくりと起き上がる、不愉快な感覚がある。記憶の封印が解ける兆しだ。記憶の錠前がかたかたと震え軋む、まだ始まりの微かなその違和感を身体が、心が拒絶している。
「あ、……いや、いや」
「詩織、おいで。――俺の中で記憶の封印を解け」
ぎゅうっと、強く抱きしめられた。ケイさんが私の右手を取る。そして掌に軽く口づける。伸びすぎて整っているといえない前髪の隙間から切れ長の目がのぞく。強く射抜くような視線だ。ケイさんは握った私の手を彼の胸に押し当てた。
岩のように頑丈で厳しい心の入口が、さあ来い、中へ入れ、と誘うように開いている。なぜだろう。私は大きい人の誘いに抗えない。
記憶の錠前の軋みがどんどん大きくなる。
ケイさんの心へダイブしたその瞬間、記憶の錠前がいくつも、弾けるように外れた。
* * *
暗い部屋。行灯のほのかな明かりをはさみ、二人の男が向かい合っている。一人は年老い、一人は若い。気遣うように老人を見つめる若い男の瞳は縦長のスリットだ。
「――寝たか」
「ええ」
答える老人はのろのろと続きの間へ視線を投げた。気の強さが表れた眉の下に大きな目、意志の強さがうかがえる男らしい顔立ちが今は疲れきって覇気を失っている。ふすまや畳に大きな裂け目が放射状に走っている。その放射状の裂け目の中心は闇に沈んでいる。
「これでしばらく発作を起こさずにいられるでしょうか」
「ひと月か、半月か、……どのぐらいもつかは分からん。――大吾、多々良が浜へ、白梅荘へ連れて行ったほうがいいんじゃないのか」
大吾と呼ばれた老人は唇を噛み、うつむいた。
「……駄目です。それに――」
再び顔を上げた老人の疲れた目に炎が宿った。
「まだです。まだすべてを刻みこんでいない」
「――大吾。やはりもう少し大きくなってからのほうがいいんじゃないのか。あの子は幼すぎる」
「駄目です。時間が足りない」
行灯のほのかな明かりにあぶられるように大吾の顔にしみが浮き上がっている。その視線の先、闇の中で何かがうごめき、微かなすすり泣きが漏れた。
「わたしの記憶封印が終わるのが先か、この子の体力が尽きるのが先か――」
「大吾。お前だって身体が」
「わたしはいいのです」
大吾の顔に昏い笑みが浮かんだ。
「わたしはもう、いいんです」
「オレは嫌だ」
「周平、ほんとうにすまない。そう思っているんです。でも――わたしより問題は」
二人は続きの間へ視線を投げた。
「このままではあの子がもちません。あんなに生命力を消耗してしまうなんて」
幼い子どものすすり泣きが大きくなった。
「白梅が駄目なら、嵐太郎さんに診てもらってはどうだ」
「いけません」
大吾は首を振り、うなだれた。
「あの人は――あの人には無理です」
「どうして。嵐太郎さんはオレたちハイブリッドコードキャリア専門の医者だぞ」
「周平、まさか、あの人にこの子のことを」
じーちゃ、じーちゃ、と幼い子どもの咽び泣く声がする。闇の中で何かが蠢く。
「詩織がハイブリッドチャイルドだと」
「いってない。ここ数十年会ってもいないがだいたいお前を差し置いてそんな話ができるわけが――」
――うわあああああ。
――ああああああ。
闇の中で蠢く気配が急激に大きくなった。
「大吾、下がれ」
周平は立ち上がり、はおっていた浴衣を脱いだ。痩せた体、青白い肌に紅いもの、白いもの――蚯蚓腫れが縦横に走っている。
「周平」
「いい。気にするな。刺されるのには慣れている」
周平は蠢く闇へ厳しい、そしてどこか痛ましいものを見るような目を向けた。
――ぐ、ぐぐぐぐ。
体が変化する。
黄金色の目がらんらんと輝き、灰色の毛皮に木漏れ日のような斑点が浮いている。鋭い歯、爪――。大きな山猫だ。なめらかな毛皮に覆われた背中が大きく膨らんだのと同時に山猫は闇の中へ身を投じた。闇が膨らみ、弾ける。
――うわあああああ。
――ああああああ。
がたがたと震える大吾の眼前を禍々しい気配が掠めて通り過ぎた。唐紙のめくれ上がったふすまを鋭く尖った何かがずばり、と裂く。ひゅん、ひゅんと何かが風を切る音、獣の唸り声がする。そして
びち、びちり。
鮮血が震える大吾の膝もとに飛んできた。
やがて、闇の中に静けさが戻った。
「じーちゃ、じーちゃ……」
「詩織、大丈夫だ。すぐそこにじーちゃんがいるぞ」
「おじちゃ……ごめんしゃ、ごめんしゃ」
「詩織、いいんだ。我慢するな」
灯りを手に近づく大吾の目に、周平とその腕の中でしくしくと泣く幼子、ふたりの血まみれの姿が飛びこんできた。幼子の後頭部には花が咲いていた。痛々しく赤い花びら、その中央から夥しい数の触手が生え、のたうっている。
* * *
ああ、そうだった。なぜ忘れてしまっていたんだろう。




