第五話 夜長(五)
から、からん。ふんかふんかふんか。
頬に鼻をすりつけられる。髭が肌をくすぐる。
「寒くありませんか?」
頬につけられた鼻の先が横にふるふると動く。
山嵐。背中に針をたくさん背負った、危険な動物。動物園で何度か見たことがある、そのくらいの認識だった。ごわごわと硬く、後ろへ長く伸びた半白の鬣。背中から腰にかけてびっしりと生えた黒と白、斑模様の針毛。完全に山嵐に、しかも規格外に巨大な山嵐に変化すると、人型のときの器用で繊細な指はない。私の名を呼ぶあの低く艶やかで穏やかな声もない。それでもこの姿もケイさんなのだ。あたたかいまなざし。黒々とした目が潤む。私はこの目に時折迷いが揺れるのを知っている。この大きく美しく力強い獣もまた私の大好きな大きい人だ。
夜。ケイさんの寝室で今、私はとても幸せだ。
ケイさんの完全獣化した大山嵐姿、念願のリアルファーを堪能している。その大山嵐の鬣を撫でまわし、大きくて丸い鼻先に頬ずりし、腹の下に潜りこんで喉もとにある三日月形の白い毛の帯を指でわしゃわしゃと掻いて、巨体のわりに小さな目をさらに細める様子を浮き浮きと見上げている。人型のケイさんにこんなことできない。でも彼が完全に獣化した今なら恥ずかしくない。ケイさんが人語を話せないのをいいことにやりたい放題、甘え放題だ。知らなかった。こんなに素敵だなんて。
もちろん恐怖が全くないといえば嘘になる。今のケイさんはいつもよりさらに大きく見える。ヒトとして決して小さくない私がすっぽりと腹の下におさまってしまう、そんな大きな生き物への恐怖心を捨て去るのは本能的に難しい。何かの拍子に彼が理性を失ってしまえば、わざわざ針毛を使わずとも下にいる私の肋骨を前足で踏みぬくことくらい容易にできるだろう。
でもこの大山嵐はケイさんなんだ、と感じる。
その巨体に比して意外に小さいちょこんとした足をおずおずと私の手に載せる。乾いていて少しささくれた硬い皮膚の向こうにぷにぷにと弾力をもった肉球のようなものがある。あたたかい足の裏を撫で、指先の頑丈な爪を撫でる。その爪が私の掌に埋まりかけたとき、大山嵐の身体がびくり、とおののいた。先ほど私の喉に少しだけ、前歯の先が埋まったそのときも同じように怯んだ様子を見せた。
探らずとも、大山嵐の抑えきれない感情の奔流が見える。何度もダイブして庭のように見慣れたその表層、険しい崖のような岩塊、今は閉じている心の表層に漏れているのが見える。
――踏みつぶしてしまうのではないか。
――肌を裂いてしまうのではないか。
――喉を食い破ってしまうのではないか。
――獣性が暴走して理性を呑みこんでしまうんじゃないか。
ケイさんが完全獣化を嫌がるのは言葉を交わせないからだけではない。私を傷つけるのが怖いからだ。私が拒絶するのが怖いからだ。そんなに心配しないで。そう口に出すのは簡単だ。でもそうしない。まるで自分のものではないかのようにつまはじきにしようとしているが、獣性もケイさんの一部だ。ケイさん自身もそれは理解している。でも納得できないのだろう。人の身で人を愛したいという強い気持ちもまたケイさんのものだ。今まで何度も傷つき怯えてきたことで絡み縺れてしまったその気持ちはケイさん自身にしかほどくことができない。
――もしかしたら、私でもほどけるんじゃないかな。
そう思うこともある。実際できそうで困る。
私も怖い。こうあってほしい、こうあるべきだ、と心に立ち入り、いじりまわした末に隣にいる大きい人が私の大好きな人でなくなってしまう。そんなことができてしまう自分が怖い。そんな欲求に駆られる自分が怖い。
姿が変わるくらい、なんてことない。
ケイさんが自身で変化するなら、それがどんな変化であっても私は受け入れられる。でも私が心に立ち入り干渉し、造り変えてできあがる人が今のケイさんと同じであるとは思えない。
私はもうやってしまっているんじゃないか。ケイさんの心の奥、あの美しいセノーテにアンカーを取り付けたあのときすでに一線を越えてしまったんじゃないか。この人がこんなに慕ってくれるのは、私が心を踏み荒らし造り変えたからではないのか。
もしそうだとしたら。きっと私は自分を赦せない。
私は大山嵐の胸もとにしがみついてすはすはとにおいを嗅いだ。微かにかおる麝香の向こうに私を安堵させるあの親しげな日向のにおいがある。
ふんかふんかふんか。
大山嵐が鼻を私の頬に押しつける。
「もうおしまいですか? このまま眠ってしまいたいくらいあたたかくて気持ちいいのに」
ふんかふんかふんかふんかふんか。
心なしか鼻息が荒くなった気がしないでもない。分かりにくいがこれは否定の意志表示であると見た。理由は不明ながら本人が嫌がっているのでは仕方ない。渋々獣化を解く手伝いをした。これが要するにべろちゅーなんだけれどもさ。なんで毎回こうなっちゃうのかね。
ばっしばしばしばし!
何回タップアウトすれば気づくんじゃ、ステイ!
私の婚約者は獣化を解く際にその手続きに時間をかけ過ぎるというか熱心というか。ねちっこいんじゃボケ、窒息するわアホと腹の底から思うわけ。口に出したくても出せないけど。でっかい山嵐がぐりぐり顔を押しつけてきやがるので私の口と鼻が塞がってしまうから。気が遠くなりそう。私はケイさんの腕をばしばしばし、とタップアウトしつづけた。
「髪が伸びたな」
ケイさんが片肘をつきもう片方の手で私の頭を撫でている。寝巻代わりの浴衣をゆるりとはおるケイさんの胸もとがはだけていたりするのだがおっさんのくせにたいそう悩ましい眺めだ。しかし三途の川が見えそうになるくらい酸素の足りない状況から帰還を果たしたばかりの私にそれを楽しむ余裕などない。なんでこうなるんだ。
なんでこうなっているかというと、感覚を共有するトレーニングがうまくいかないからである。
ちょっと飛躍した。
トレーニングがうまくいかず、どうしたもんかと考えこんでいたらば、私が落ちこんでいると思ったらしいケイさんがもじもじしながら「完全に獣化したところ、見たい?」とかなんとかいいだしたのである。見たい見たい、あわよくばもふもふをさわりまくりいじりまくりたい。熱心にうなずいてみせたところ、嬉しはずかしもふもふアワーとなり、しかしアワーというには物足りないまま終了となり、そして窒息しかかった、と。
「――もう一回、試してみます」
「今夜はもうやめておこう」
「でも」
ケイさんに左腕を掴まれた。痛い。つい顔に出してしまった。その様子をケイさんがじっと見ている。
「たいして強く握っているわけじゃない」
「――ええ。分かっています」
「精神干渉の力を使うとこの腕が痛むんじゃないのか」
認めたくないがそのとおりだ。左腕の奥がじくじくと疼く。近いうちにまた脱臼してしまうんだと思う。
「変な癖がついてしまったな」
腕を離し、布団をかけ直してケイさんが私の髪を撫でる。




