星占い?(後編)
あの子に訊く前に、片づけておくべきものがあった。
ビラの出どころだ。
生協の印刷機には、利用予約票が残る。
翌朝、事務のカウンターで綴りをめくらせてもらった。
二百枚。
名義は『怪異現象研究会』――通称、オカケン。
怪談を集めて記録し、学生の悩み相談も受ける、という趣旨のサークルだった。
部室は、旧図書館の裏手にあるプレハブ棟にあった。
石油ストーブが焚かれていて、段ボール箱が壁際にうず高く積まれている。
中身は、学内で集めた怪談の投書だった。
悪い気配のする部屋ではない。
禍々しい怪異の気配など微塵もない、ただの学生の溜まり場だ。
普通の部屋だからこそ、余計に厄介だった。
代表代行の日下部という学生は、部室でわたしを歓迎した。
「大津さんですよね。会えてよかった」
人当たりのいい、営業マンのような笑い方をする人だった。
パイプ机の上には、細かい字で埋まったスケジュール帳が広げられている。
手際よく実務を回している人間の机だ。
わたしは、頭の中でカードを三つ並べることにした。
一つ目。
「あのビラの印刷、あなたの会の名義で予約されていますね」
「はい」
二つ目。
「載っている体験談は、宮坂さんの話です。けれど宮坂さんは、会の誰にも話していないと言っていました」
「……同じ下宿の後輩が、小耳に挟んでたみたいで」
三つ目。
わたしは、机の上に置かれていた整理券を裏返した。
裏面に、サークルの入会案内が印刷されている。
「あの列、新入生の勧誘導線ですね」
日下部さんは、そこで初めて言葉に詰まった。
うつむいたのは、ほんの一瞬だった。
「困ってる子が、本当にいるんです」
顔を上げたときには、もう、淀みのないまっすぐな目に戻っていた。
「大学の相談窓口なんて、あってないようなものでしょう。カウンセリングは一か月待ちで、学生課の対応は事務的で」
「でしょうね」
「大津さんの力があれば、助けられる子がいる。それを黙って隠しておくほうが、不誠実じゃないですか」
身を乗り出し、親しげに笑いかけてくる。
「それに、うちは怪談を集める会ですからね。本物の方が学内にいるなら、記録に残したいし、できればサインも欲しいくらいでして」
ポケットからスマートフォンを取り出し、構えようとした。
「あ、一枚撮らせてもらってもいいですか?」
芸能人扱いですか、と喉まで出かかった。
(……ああ。この手の言い方は、よく知っていますわ)
あなたにしか、できないのだから。
あなたのためを思って言っているのだから。
口にする側は、それを純度百パーセントの善意だと信じ込んでいる。
だからこそ、これ以上なく始末に負えないのだ。
「日下部さん」
「はい」
「わたしの力を、あなたが勝手に利用しないでください」
声が、思ったより硬く、低く出た。
「……これは、わたしのものです」
子供じみた意地だと、自分でも分かっていた。
分かってはいたが、決して言い直さなかった。
日下部さんは、しばらく呆然と黙り込んでいた。
「……分かりました」
早い返事だった。
早すぎる返事をする人間は、たいてい腹の中では何も納得していない。
「よく考えてください」
わたしは椅子から立ち上がった。
「『分かりました』で済ませるのではなく」
その日の午後、時計台下の最後尾の立て札は撤去された。
誰かが泥を拭き取り、ベンチの脇に申し訳程度に立てかけていったらしい。
来週になれば、また別の誰かの名義で似たようなビラが撒かれないとも限らない。
けれど、わたしにできる境界線の引き方は、ここまでだった。
◆
列は、三日かけて潮が引くように痩せ細っていった。
そして最後に残ったのが、あの紺のダッフルコートの女子学生だった。
水曜の夕方。
時計台の鐘が、重く五時の訪れを告げた。
空はすでに濃い藍色に沈み、冷え切った石畳だけが白く浮き上がっている。
銀杏の木の下には、もう彼女ひとりしかいなかった。
わたしは、初めて自分から声をかけた。
「先頭ですよ」
彼女は、びくっと両肩を跳ね上げた。
「……あの……」
「三日どころではありませんね。九日目です」
毎日数えていましたので、とは口にしなかった。
ずっと、彼女がこの騒ぎの黒幕ではないかと疑っていた。
人を集めたがっていたのは、この子ではないのか。
噂を煽り、列を仕立て、その中に紛れ込んで様子を伺っているのではないか。
――完全な見当違いだった。
彼女は、ただビラを見て縋るように並んだだけの、一番無防備な顔をしていた。
「小暮です。小暮しおり」
文学部の一年生だと、消え入りそうな声で名乗った。
「順番が近づくと、いつも列を抜けていましたね」
「……はい」
「なぜですか」
小暮さんは、ダッフルコートの袖口を両手で固く握りしめた。
抱えた鞄から覗いていた紙の角が、不意に滑り落ちそうになる。
退学届の所定用紙だった。
「実家から、電話がかかってきていて」
言葉が、そこで一度途切れた。
「大学を辞めて、地元に帰ってこいって。今月いっぱいで返事をしろって言われていて」
弟が二人いること。
父親の会社の経営が傾いていること。
母親が電話口で泣き崩れたこと。
仕送りが、先月から途絶えていること。
小暮さんは、淡々と事実を並べていった。
そこに並ぶのは家の都合ばかりで、彼女自身がどうしたいのかという意志だけが、どこにも見当たらない。
「占ってもらったら、腹が決まるかなって、思ったんです」
「思って?」
「並んでいたら……」
彼女は泣きそうに顔を歪め、笑うのに失敗した。
「前が残り三人になると、急に、怖くなるんです」
「怖い?」
「占いに背中を押されて決めたら、わたし、一生その占いのせいにして生きることになるなって」
――ああ。
この子は、もう自分で答えを出している。
わたしが差し挟むべき言葉など、最初から何ひとつない。
(……初めから、自分の中に答えを持って並んでいたわけですか)
九日間、この子はあの長い列を、自分自身と交渉するための待合室として使っていたのだ。
「小暮さん」
「はい」
「星は見ませんよ」
わたしは鞄から手帳を取り出し、ペンを走らせた。
「暦を、見ます」
「え……」
「あなたが大学を続けるか辞めるかは、わたしの領分ではありません。決めるのは、あなた自身です」
手帳の頁をめくる。
方角。
日取り。
月の満ち欠け。
家を飛び出してきても、この手の計算だけは息をするように頭の中で組み上がってしまう。
「ただ、家族に告げる日を選ぶことならできます」
手帳の端を小さく破り、日付をひとつだけ記して手渡した。
十一月二十三日。
「その日なら、一番波風を立てずに話が進みます」
嘘ではない。
人が感情を荒立てにくく、物事が穏やかに収束しやすい日取りというものは、確かに存在する。
天体と日の巡りが生み出す、ただの統計と運行の話だ。
信じる必要はない。
けれど、何をやっても上手くいかない日があるように、何の引っかかりもなく物事が進む日というものがある。あえて静かな日を選んで口火を切ることは、決して無駄ではないはずだ。
小暮さんは、その小さな紙片を両手で大切そうに受け取った。
そして、はっと目を見張った。
「……母の、誕生日です」
わたしは、返す言葉を三秒ほど探した。
「……ただの偶然です」
声が、わずかに揺れた。
「暦なんて、そういうものですから」
小暮さんがその日に電話をかけたのかどうか、わたしは知らない。
あえて尋ねもしなかった。
他人の人生の顛末を確かめるのは、わたしの仕事ではないからだ。
わたしが家を出たのは、誰の指図でもなく、自分の意志だった。
この子にも、ようやくその兆しが見え始めている。
同じですね、などと軽々しく共感を示すつもりは毛頭なかった。
◆
学生たちの消えたベンチの上には、雑多な置き土産が山積みになっていた。
みかんが十二個。
カップ麺が三個。
図書カードが五百円分。
焼き菓子の小袋が二つ。
消費期限が迫った菓子パンが四つ。
差出人の名前は、どこにも記されていない。
消費期限の印字をひとつずつ確認し、わたしは深々と天を仰いだ。
パンも焼き菓子も、すべて今日の日付で切れている。
先週もらったみかんの六個は、すでに胃袋の中だ。
(……今夜の夕食は、これですの?)
もやしを買い足す出費が浮いた、と無理やり自分を納得させることにした。
ポケットの中で、携帯電話が鳴動した。
『店じまいしたんだって?』
「最初から開いていませんでした」
『災難だったな』
「みかんを十二個と、菓子パンをもらいました」
『大繁盛じゃないか』
わたしは、無言で通話を切った。
文芸演習のレポート締め切りは、明日の正午だ。
まだ一行たりとも筆が進んでいない。
◆
最後に残された『最後尾はこちら』の立て札は、誰も片づける様子がなかったので、引き取ってアパートへ持ち帰った。
狭い六畳間の壁に立てかけ、ふと裏面に目を留める。
鉛筆の細い線で、小さな文字が書き残されていた。
『ありがとうございました』
あの几帳面で丸っこいフォントのような字ではない。
誰が書いたものかは分からない。
九日間のうちに列へ並んだ、名も知らぬ学生の誰かだろう。
わたしは、その擦れた鉛筆の跡をしばらく見つめていた。
わたしは、誰の運命も救ってはいない。
ただ、ひとつの日付を教えただけだ。
他人のための暦なら、いくらでも計算できる。
(……自分の行く先は、まだ見ていませんわね)
小さく舌打ちをして、喉の奥で言い直す。
まだ、見ていない。
アパートの小さな冷蔵庫を開けると、敷き詰められた十二個のみかんが、鮮やかな橙色でこちらを見上げていた。
お読みいただきありがとうございました。
大津真琴の一話完結シリーズです。他の話もよろしければ。
因みに、真琴は小食です。(´・ω・`)。




