知ってるのに言えない
毎晩、二十二時になるとスマホを手に取るようになった。
ベッドに寄りかかってイヤホンをして、夜凪の配信を待つ。「こえつきライブ、始まります」の通知が来ると、胸が少しだけ早くなる。自分でも馬鹿みたいだと思った。二十七歳の保育士が同僚の配信を毎晩聴いている。
——今日はね、ちょっとだけ嬉しいことがあったんだ。
夜凪の声が耳元に届く。穏やかで低く、聴いている人を急かさない声。
——職場で、子どもが絵本をもう一回読んでって言ってくれたんだよね。それだけのことなんだけど、なんか、嬉しかった。
知っている。私はその場面を見ていた。ひなたちゃんが「もういっかいよんで」と言ったとき、瀬野くんの目が少しだけ細くなったのを。でも配信を聴いている人たちはその「子ども」が誰なのか知らない。「職場」がどこなのかも知らない。
私だけが知っている。
コメント欄には見慣れた名前があった。「しおん」さんは毎晩いる。「おつかれー」「今日も声いいね」と短く書いて去る人。「ゆめこ」さんは「夜勤明けに来ました」と書いていた。この声を待っている人が、私以外にもいる。
コメント欄に指が触れた。何か打とうとして、やめた。また触れて、やめた。毎晩聴くようになって三日目の夜、ようやく短いコメントを送った。
「おつかれさまです」
アカウント名は「なつ」にした。本名を使う勇気はなかった。
——あ、なつさん、はじめまして。来てくれてありがとう。
名前を呼ばれた。画面の向こうで、瀬野くんが——夜凪が——私の名前を読んでいる。知らないはずの人の名前として。
翌日の職場。瀬野くんが保育室の前で子どもたちの靴を並べていた。私はいつものように「おはようございます」と声をかけた。瀬野くんは「おはようございます、柊さん」と返した。敬語のまま。適切な距離のまま。
この人は知らない。昨夜、私が画面の向こう側にいたことを。
日中、瀬野くんの声を聞くたびに、夜の声が重なった。園児に「じゃあ、お片づけしようか」と声をかける瀬野くんと、「じゃあ、おやすみ」と配信を閉じる夜凪が、同じ唇から生まれている。
昼間の瀬野くんは控えめだった。職員室では一番端の席に座って、黙々と連絡帳を書いている。美咲が話しかけると丁寧に答えるけれど、自分からは話さない。困ると前髪を指で流す癖がある。それを知っているのは、隣のクラスからずっと見ているからだ。
夜の夜凪は違った。マイクに向かって、自分から話を始める。コメントに反応して笑う。少し黙って、また話し出す。職員室で一番端の席にいる、あの控えめな新人とは別人みたいだった。
知っているのに言えない。言ったら、配信を聴いていることがバレる。「瀬野くんって夜凪さんですよね」——そんなことを言えるわけがない。
でも、この秘密だけが、今の私の夜を救っている。
二十二時。今夜も通知が来る。私はイヤホンを耳にはめて、ベッドに横になった。
——今日もおつかれ。ゆっくり目を閉じていいからね。
部屋は真っ暗で、イヤホンの中の声だけが残っていた。明日の朝、私はまた「柊さん」と呼ばれる。私が昨夜「なつ」と呼ばれたことを、瀬野くんは知らない。
夜だけ、この人の声の中にいる。




