帰り道が、長い
金曜日の夜。部屋に帰ってシャワーを浴び、髪を乾かして。いつもならベッドに倒れ込む時間だった。でも今日は違った。
スマホを手に取って、アプリストアを開いた。検索窓に「こえつき」と打ち込む。水色のアイコン。インストール。
瀬野くんのスマホに見えたアプリだった。昨日からずっと気になっていた。配信をやっているのか。あの声で、何を話しているのか。
アプリを開くと、カテゴリが並んでいた。雑談、音楽、ASMR、寝かしつけ。「瀬野」で検索してみた。該当なし。本名では出ていないのか。当たり前だ。
少し考えて、「保育」と打ってみた。いくつかのアカウントが出てきた。どれも違う。「寝かしつけ」で検索を変えた。
——「夜凪」。
アバターは夜空を背景にした横顔のシルエット。「深夜のひとりごと。眠れない夜に」と書いてある。フォロワーは一万人ほど。いま、ライブ配信中だった。LIVE のマークが赤く点いている。
二十二時から始まって、もう一時間近く経っていた。途中だった。それでも指が勝手に、ライブに飛び込んでいた。
数秒のホワイトノイズの後、息を吐く音がして、低い声が、イヤホン越しに流れてきた。マイクが近い。耳元で囁かれているみたいに、近い。
——今日もおつかれ。
心臓が跳ねた。
——ゆっくり目を閉じていいからね。今日がんばった人は、もう休んでいいから。
あの声だった。絵本を読んでいたときの、あの声だ。ワントーン低くて間が長く、急かさない。教室で聴いた声と同じなのに、イヤホンを通すとまるで耳元で囁かれているみたいだった。
コメント欄が流れていた。「みもざ:おつかれー」「やぎ:今日も声いいね」「ねむれない_22時:夜凪さんの声聞くと安心する」。同じ名前が何度も流れる。常連がいるんだ、たぶん。三百人ちょっとの「いま」が、この声に耳を澄ませている。私が知らなかっただけで、この人はずっと、こうやって誰かの夜を包んできたんだ、きっと。
私が聴き始めてから三十分で、配信は終わった。「じゃあ、おやすみ。また明日ね」と言って、夜凪が——瀬野くんは——そっと去っていった。
私はイヤホンを外せないまま、暗い天井を見ていた。
翌朝、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。いつもより三十分早い。不思議と体が軽かった。あの声がまだ耳の奥に残っている気がした。
仕事中、瀬野くんが子どもに話しかけるのを聞くたびに、夜の声が重なった。同じ声なのに、園と画面越しでは別の人みたいだった。定時できっちり帰っていくあの人が、夜には画面の向こうで誰かの眠りを包んでいる。
その日から、帰り道が長くなった。早く家に帰りたい。あの声が聴きたい。電車の中でこえつきのアプリを開いて、夜凪のプロフィールページを何度も見た。次の配信は今夜の二十二時。
勤め先から家までがこんなに遠いとは、五年住んで初めて思った。家賃を一万円安くしたくて駅から徒歩十五分のマンションを選んだ自分を、毎日恨んでいる。改札を抜けたら、自然と足が速くなる。
今夜も二十二時に、夜凪が待っている。




