無理しないでください
木曜日の夜、二十一時半。連絡帳を書き終えて、職員室の電気を消した。今夜も最後だった。
駅前のコンビニに寄った。ペットボトルのお茶と、おにぎりを一個。それだけ手に取った。
雑誌コーナーで誰かが立ち読みしていた。何気なく見て、息が止まった。
瀬野くんだった。黒いパーカー姿で、料理雑誌をぱらぱらとめくっている。
「あ」
声が出た。瀬野くんが顔を上げた。私を見て、目が少しだけ大きくなった。
「柊さん」
「瀬野くん、こんな時間にこんなところで」
「こんばんは。こんな遅くまで、お疲れさまです」と瀬野くんは雑誌を棚に戻した。「すぐそこに住んでるんで、ちょっと、料理の本だけ見て帰ろうかと」
「料理するんだ」
「ときどきだけ」
声が小さい。外で会うと、職場とはまた違う気がした。職場では白いTシャツ姿しか見たことがなかったから、黒いパーカーの瀬野くんは別人のようだった。声は同じなのに、雰囲気だけ少し違う。
二人でレジに並んだ。前後で並んでいるだけなのに、なんだか落ち着かなかった。瀬野くんはコンビニコーヒーとサンドイッチを買っていた。私はおにぎりとお茶だけだった。
「夜ご飯、それだけですか」
瀬野くんが私のかごを見て、少し心配そうに聞いた。
「うん、お腹すいてないし」
嘘だった。お腹はすいていた。でも家でこのおにぎりひとつ食べて、すぐに寝るつもりだった。それを言うと、瀬野くんに何か言われそうな気がした。
会計を終えて、二人で店を出た。改札の方へ並んで歩く。
「電車、どっち方面ですか」
瀬野くんが聞いた。
「上り。北の方」
「僕は下りなので、ここで」
改札に着くと、瀬野くんは少しだけ立ち止まった。私も立ち止まった。
「お疲れさまでした」
「うん、また明日」
瀬野くんは改札を抜けようとして、足を止めた。少し振り返って、また前髪を流した。
「あの、柊さん」
「ん?」
「柊さん。僕、いつも先に帰っちゃってて……無理しないでください、本当に」
それだけ言って、瀬野くんは改札を抜けて、階段を駆け降りていった。
私はその場で動けなかった。改札の音、別の人の足音、自動アナウンス。それらが全部、急に遠くなった。
無理しないでください。
頭の中でその言葉だけが残った。
電車に乗って、扉のそばに立った。窓に映る自分の顔を見ながら、ずっとその言葉を反芻していた。三島主任にも前に同じことを言われた。あのときも珍しいと思った。十五年も同じ園にいる三島主任が、そんなことを言うのは。
でも瀬野くんの「無理しないでください」は、響き方が違った。
三島主任の言葉は、保育士仲間としての距離感のある優しさだった。瀬野くんの言葉は、なんだろう。もっと近い。私のことを、私の生活のことを、心配している声だった。
駅徒歩十五分のマンションまで、いつもより足が遅かった。家に着いて、ドアを開けて、靴を脱いで、リビングの電気をつけた。冷蔵庫を開けて、コンビニのお茶を入れた。冷たいお茶を一口飲んだ。
無理しないでください。
その声が、まだ残っていた。
ベッドに腰掛けて、スマホを手に取った。「こえつき」のアイコンを思い出した。瀬野くんのスマホに見えた、あの水色のアイコン。
アプリ、まだダウンロードしていない。今夜は、もうそんな元気もない。
瀬野くんは、配信しているんだろうか。アイコンを見たときから、ずっと勝手にそう思ってた。でも、ただのリスナーなだけかもしれない。
配信してたら、嬉しいな。あの絵本のときの声が、夜にも流れていたら。
ベッドに横になって、暗い天井を見ていた。




