妹に読んでたので
四歳児クラスの教室の前を通りかかったとき、足が止まった。
瀬野くんが絵本を読んでいた。子どもたちが半円形に座って、じっと聴いている。静かに。四歳児が十五人、誰も騒いでいない。
私は廊下の壁に背中をつけて、声だけ聴いた。
「それでね、くまさんは、森の奥のおうちに帰りました。おうちには、あったかいスープが待っていました」
間の取り方が違った。普通は子どもを飽きさせないようにテンポを切らさず読む。私もそうしている。瀬野くんは違った。「帰りました」のあとに、一拍置く。その沈黙の中で、子どもたちは静かに息をしている。押しつけない。急かさない。ただそこに声を置いていく、という感じだった。
新卒一年目の読み聞かせじゃない。プロの朗読を聴いているような——いや、それとも少し違う。もっと親密で、もっと近い距離の声だった。
特に目を引いたのは、ひなたちゃんだった。いつもは椅子に座っていられなくて、すぐに立ち上がったり隣の子にちょっかいを出したりする。それが今日は、膝を抱えて前のめりになって、瀬野くんの口元をじっと見つめていた。
絵本が終わると、子どもたちが拍手した。ひなたちゃんが最初に手を叩いた。
「もういっかいよんで」
「もう一回はね、また明日にしようか。楽しみが増えるでしょ」
瀬野くんがそう言うと、ひなたちゃんは少し考えてから「うん」と頷いた。素直だった。桐谷さんが見たら驚くだろうなと思った。
夕方、片づけの時間に瀬野くんと並んで画用紙を棚に戻していた。
「瀬野くん、絵本の読み聞かせ、すごく上手だね」
思い切って言った。瀬野くんは画用紙を棚に滑り込ませながら、前髪を指で流した。
「そうですか。妹に読んでたので」
妹。短い一言で、会話が閉じかけた。聞きたいことは他にもあったのに。どうしてあんなに間の取り方がうまいのか。どうして子どもたちが集中しきれるのか。
私は手元の画用紙の端をそろえながら、次の言葉を探していた。瀬野くんも黙ったまま、棚の段を整えている。
しばらくして、瀬野くんが小さい声で、私の方を見ずに言った。
「柊さん、廊下にいましたよね。さっき、絵本のとき」
手が止まった。
「え。あ……うん、ちょっとだけ」
声がうわずった。気づかれていた。壁に背中をつけて、ただ立って聴いていただけのつもりだったのに。
「ごめんね、邪魔だったよね」
「いえ、邪魔とかじゃ、なくて」
瀬野くんは画用紙を棚に置いて、もう一度前髪を流した。見覚えがある仕草だった。先日、休憩室で甘いものの話をしたとき、同じ動きをしていた。
「なんていうか、聴いてもらえてるなって思ったら、いつもよりちょっと、上手く読めた気がして」
「あ、そう、なんだ」
返す言葉が見つからなかった。瀬野くんはそこで、ちらっと私を見た。
「だから、嬉しかったです」
また棚に視線を戻して、最後の画用紙を上の段に押し込んだ。
私の手元には、まだ画用紙が残っていた。動揺で手が止まっていたから、半分以上整え終わっていなかった。
瀬野くんは私の方に手を伸ばして、束を半分だけ受け取った。
「半分やります」
静かにそれだけ言って、自分の側の棚に並べていく。私も棚に向き直って、残りを並べた。手元はぎこちなかった。
二人で同時に最後の一枚を押し込んだ。
瀬野くんは「お先にロッカー行きます」と小さく言って、教室を出ていった。私はその後ろ姿が廊下に消えるまで、棚に手をついたまま動けなかった。
帰り支度をしていた瀬野くんが、ロッカーの前でスマホを取り出した。何かをチェックしている。画面が一瞬、私の方を向いた。
アプリのアイコンが見えた。水色の背景に、白い波形のマーク。「こえつき」と書いてある。
配信アプリ?
瀬野くんはスマホをポケットにしまって、「お先に失礼します」と出ていった。いつもの十七時十五分だった。
こえつき。アバターを使って声で配信するアプリだ。名前だけは知っている。大学の友人の莉子が「最近流行ってるやつ」と言っていたことがある。
「こえつき」と頭の中で繰り返した。あの子の声で、何を話しているんだろう。
鞄を持って、私も帰り支度を始めた。




