それが私にはできない
瀬野くんが来て一週間が経った。定時退勤は初日だけの話ではなかった。
毎日、十七時十五分。エプロンを畳んで鞄を持ち、「お先に失礼します」。判で押したように同じ時間に帰っていく。三島主任は最初の三日で舌打ちをやめた。やめたというより、諦めた顔をしていた。
美咲は違う。
「瀬野くんってさ、マイペースだよね。でもなんか嫌な感じしないんだよなー」
昼休みの給湯室で、美咲がお茶を淹れながら言った。「あの子、LINE聞いたんだけど『すみません、あまり見ないので』だって。今どきそんな子いる?」
私はペットボトルのお茶を飲みながら曖昧に笑った。美咲が瀬野くんを気にしているのは明らかだ。
でも私が気になっていたのは、別のことだ。
瀬野くんが定時で帰っているのに、四歳児クラスが回っている。瀬野くんが書いた連絡帳を前に見せてもらったことがある。丁寧で、しかも的確だった。「今日はブロックで船を作りました。ひなたちゃんが窓の色を決めてくれました」。子どもの名前と具体的なエピソードが、一人ひとり違う文章で書かれている。
あの短い時間で、ここまで子どもを見てる。すごい。私、五年もやってるのに、ここまでは見られてない。なんで定時で帰れるんだろう。わからない。
それが私にはできない。
十八時半。延長保育の子どもたちが一人、また一人と迎えの保護者に引き渡されていく。私は壁面装飾のチューリップを切りながら、瀬野くんの連絡帳の文字を思い出していた。丸みのある、穏やかな字をしていた。
なぜ私はここにいるんだろう。ここに残っている、と言ったほうが正しいかもしれない。残業をしないと仕事が終わらないからだ。でも瀬野くんは終わらせている。同じ子どもの数を見て、同じ連絡帳を書き、同じ時間にスタートしているのに。
翌日の昼。珍しく休憩室が空いていた。弁当を広げたら、向かいの席に瀬野くんが座った。
「あ、すみません。ここ、大丈夫ですか」
「うん、どうぞ」
瀬野くんはコンビニの袋からサンドイッチとプリンを出した。プリンを先に開ける。
「甘いもの好きなんだ」
言ってから、口が止まった。年下の男の子にタメ口で、声もちょっと上ずっていた気がする。なんかちょっと、変だ。でも瀬野くんは少し目を細めて笑った。
「好きです。疲れると甘いもの食べたくなりませんか」
「わかる。私もプリン好き」
瀬野くんは何か言いかけて、ちらっと私を見た。目が合った。半秒くらい、お互い何も言わなかった。視線を逸らしたのは、瀬野くんが先だった。私の方が、その視線の先を追っていた気がする。
「そうなんですか。これ、このコンビニのが一番おいしいんですよ」
瀬野くんはプリンのカップを少しだけ持ち上げて見せた。目が細くなる笑い方。美咲が言っていたのは、こういうことか。
それだけの会話だった。サンドイッチを食べてプリンを食べ、瀬野くんは「ごちそうさまでした」と言って出ていった。敬語のまま。距離のある、でも不快ではない距離。
午後、四歳児クラスの教室の前を通りかかったとき、瀬野くんがひなたちゃんと話しているのが聞こえた。
「ひなたちゃん、この絵、すごいね。これはなに?」
「おうち。ママとひなたのおうち」
「屋根が大きいね。みんな入れそうだね」
ひなたちゃんが笑った。クレームの多い保護者として有名な桐谷さんの娘が、先生の前で笑っている。
十七時十五分。今日も瀬野くんは帰った。
効率が良いだけ。そう思いたかった。だけど、ひなたちゃんを笑わせるあの声は、効率の話じゃない。
配置表の前で、チューリップを切る手が、少し遅くなった。




