定時で帰るくせに
月曜日の朝礼、七時半。私は壁際に立って、新しい人の自己紹介を聞いていた。
「おはようございます。今日から四歳児クラスに入ります、瀬野蒼です。よろしくお願いします」
その新人は頭を下げた。先週のメールで知らされていた新しい人。第一印象は、地味。黒髪に白いTシャツ。声が小さい。百七十センチくらいの、やや細めの体格。保育の現場はけっこう体力勝負なのだけど、大丈夫だろうかと少し心配になった。
白石園長が「皆さん、よろしくお願いしますね」とにこにこしながら付け加えた。三島主任は腕を組んだまま、何も言わなかった。
瀬野蒼。二十歳。保育の専門学校を出たばかりらしい。四歳児クラスの補助として配属された。担任は私。これからは私と瀬野くんの二人で、十六人の子どもを見ることになる。
午前の自由遊びの時間。私は子どもたちとブロックを組み立てながら、絵本コーナーにいる瀬野くんをちらちら観察していた。新人の動きは、はじめの数日でだいたいわかる。
彼は、子どもの前でしゃがんでいた。
膝を折って、子どもと同じ目の高さに自分を合わせている。当たり前のことだ。保育の教科書にも書いてある。でも、実際にそれを自然にやれる新人は多くない。腰が痛いとか、ズボンが汚れるとか、そういう理由で中腰で済ませる人がほとんどだ。
「ねえ、これなに?」
四歳のひなたちゃんが、瀬野くんに絵本を突き出していた。桐谷さんの娘だ。この子は新しい人が苦手で、いつもなら警戒して近づかない。
「これはね、カエルさんだね。雨が好きなんだって」
瀬野くんの声が聞こえた。低い。ゆっくりしている。でも子どもに向けるときだけ、少しトーンが上がる。ひなたちゃんは絵本を抱えたまま、じっと瀬野くんの顔を見ていた。
泣かない。
ひなたちゃんは、新しい先生が来ると必ず泣く子だった。去年の実習生のときも、代替の先生が来たときも。それが今日は、絵本を見せにいっている。瀬野くんの何がそうさせるのか、私にはわからなかった。
昼休み、給湯室で美咲と一緒になった。
「ねえ奈月ちゃん、瀬野くん見た? かわいくない?」
堤美咲。二十五歳。同僚で、二歳児クラスの担当。明るくて、誰とでもすぐ打ち解ける。私にないものをたくさん持っている人だ。
「かわいい? うーん、地味だなとは思ったけど」
「え、あの感じがいいんじゃん。派手じゃないとこがいいっていうか。笑うと目が細くなるの、見た?」
見ていない。私は子どもと目線の高さを合わせるしゃがみ方しか見ていなかった。でもそれを言うと美咲に何か勘違いされそうだったので、「そうなんだ」とだけ返した。
午後。十七時を回った。延長保育の子どもたちを見ながら、私は明日の制作準備を頭の中で組み立てていた。壁面装飾の残り。保護者向けの手紙の下書き。来月のお誕生日会の買い出し。
「お先に失礼します」
振り向くと、瀬野くんがエプロンを畳んで、鞄を持っていた。十七時十五分。定時だ。
三島主任が配置表から目を上げた。小さく舌打ちが漏れた。私は壁の時計を見るふりをした。
瀬野くんは気づいたのか気づいていないのか、軽く頭を下げて出ていった。足音が廊下に消えていく。静かな足音だった。
定時で帰る。それだけのことなのに、私はまだ配置表の前に立っていた。
最初は苛立ちだと思った。私たちがこれだけ残っているのに、初日から定時で帰るなんて。でも苛立ちの下に、別の何かが混ざっている気がした。嫉妬、かもしれない。私にはできないことを、あの子は初日から普通にやっている。
十九時半。ようやく園を出る支度をしながら、ふと思い出した。午前中、ひなたちゃんのそばにしゃがんでいた瀬野くんの横顔。
でも不思議だ。いつも泣いているあの子が、瀬野くんの前では泣かなかった。
あの子は、なんで瀬野くんの前で泣かなかったんだろう。




