先生、いかないで
私の最終出勤日は、九月の最後の金曜日だった。
朝、洗いすぎて色の褪せたエプロンをつけた。五年間、何度も結び直してきた腰紐が、指に馴染んでいた。
四歳児クラスの子どもたちに、お別れを伝える時間が来た。
「せんせいね、今日でこの保育園に来るのが最後なの」
子どもたちは黙った。何人かはきょとんとしていて、意味がわかっていない子もいる。四歳の子には、「先生がいなくなる」ことが、まだぼんやりとしか届かないのだと思う。
ゆうたくんが、ゆっくり立ち上がった。私の前まで来て、エプロンの裾を両手で握った。
「せんせい、いかないで」
丸い目が、まっすぐ私を見ていた。「せんせい、だいじょうぶ?」と聞いて、「なんか、かなしいおかおしてる」と続けた子。私の嘘を見抜いていた子。
涙が出た。子どもの前で泣くのは、保育士として正しくないかもしれない。それでも、ここで笑ってごまかすことはできなかった。
「先生も、ゆうたくんと同じで、さみしいよ。でも、ゆうたくんが元気でいてくれたら、先生もうれしい」
ゆうたくんが泣きながら頷いた。
ひなたちゃんが、クレヨンで描いた絵を持って私のところに来た。大きい人と小さい人が手をつないでいて、隅っこにもう一人いる。
「なつきせんせいと、ひなたと、せのせんせい」
三人の絵だった。隅っこの瀬野先生は離れているのに、ちゃんと同じ紙の中にいた。
「ありがとう。大事にするね」
それから、お別れ会が始まった。子どもたちが「せんせい、ありがとう」と歌ってくれる。蒼は子どもたちの後ろに立ち、低い声で、歌に寄り添うように口ずさんでいた。
目が合うと、蒼が目を細めた。泣いているのがわかった。
お迎えの時間。保護者が一人ずつ来て、挨拶をしていく。
桐谷さんが、ひなたちゃんの手を引いて来た。背中はいつものようにまっすぐだった。でも今日は、ひなたちゃんの手を握る指に力が入りすぎていなかった。
桐谷さんは私の前で立ち止まり、「柊先生」と呼んだ。
「この前、ひなたが『せのせんせいみたいに読んで』って言ったんです」
言葉の終わりが、いつものように尖っていなかった。私を責める声ではなく、夜のひなたちゃんのことを話す母親の声だった。
「私、最初はどうしたらいいかわからなくて。でも、急がず読んでみました。ページをめくる前に、少し待って」
そう言って、ひなたちゃんの手を見た。
「そしたら、最後まで聞いてくれました。読み終わったあと、私の手を握って、そのまま目を閉じたんです」
そこで初めて、桐谷さんは私に向かって頭を下げた。
「ありがとうございました」
ひなたちゃんは、桐谷さんの手を握ったまま、私を見上げていた。
最後にエプロンを畳んで、ロッカーにしまった。奥には洗って捨てそびれていたプリンのカップが一つ残っていた。
捨てようとして、手が止まった。
私はひなたちゃんの絵を鞄に入れ、カップを捨ててから、園を出た。




