瀬野蒼として
退職届を出した夜。部屋で一人ぼんやりしていた。何をしていいかわからなかった。辞めると決めたのに、涙も出なかった。
インターホンが鳴った。
時計を見た。二十二時だった。こんな時間に誰が来るのだろう。モニターを見て息が止まった。
蒼が立っていた。あの夜以来、この部屋に来るのは初めてだった。
玄関を開けた。蒼はいつもの白いTシャツにチノパン。手には何も持っていなかった。
「……今、配信の時間じゃないの」
「今日は休みました」
「なんで」
蒼は少しだけ俯いて、それから顔を上げた。
「配信だと、なつきさんが見てくれるかわからなかったので。直接話したかったんです」
画面の中の夜凪ではなく、目の前にいる瀬野蒼がそう言った。
前髪に触れていた。困ったときの癖だった。
「配信してる時なら、もっとちゃんと言えたと思います。でも、それじゃだめな気がして」
近くの公園まで歩いて、街灯の下のベンチに並んで座った。夜の空気に、虫の声が細く混じっていた。
しばらく、何も言えなかった。言葉が出てこない。
「ごめんね」
先に口を開いたのは私だった。何に対してのごめんなのか、自分でもよくわからなかった。でも、それしか出てこなかった。
「僕もごめんなさい」
蒼の声は穏やかだった。配信の声でもなく、職場の声でもなく。ただの、二十歳の男の子の声だった。
笑おうとした。でも笑えなかった。代わりに涙が出た。
私は街灯の下で、蒼の横顔を見た。
「園、辞めるの」
口にしてから、蒼がもう知っているのかもしれないと思った。
「誰かに聞いた?」
「聞いてません。でも、今日の職員室の空気でわかりました」
蒼も泣いていた。声は震えていなかったけれど、目が濡れていた。街灯の光が、頬を伝う涙をそっと照らしている。
「辞めてどうするんですか」
「まだ何も決めてない。でも、あのままいたら、本当に壊れると思ったの」
蒼は少し息を吸ってから、ゆっくり言った。
「壊れますよ。もう、壊れかけてました」
「知ってたの」
「見てました。職員室でも、子どもの前でも。笑ってるのに、目の下にくまができてた」
蒼が横を向いたので、私も同じ方を見た。手は触れていないのに、少し動けば肩が当たりそうだった。
私は迷ってから、ほんの少しだけ体を寄せた。蒼は何も言わず、そのまま隣にいてくれた。




