退職届
園長室のドアをノックした。八月の終わり。まだ残暑が続いていた。
「白石園長、お時間よろしいですか」
園長はいつもの穏やかな微笑みで「どうぞ」と言った。私はデスクの向かいに座って、封筒を差し出した。
「退職届です」
園長の微笑みが、ゆっくりと消えた。封筒を手に取って中を見て、また私を見た。
「……柊先生。これは——」
「九月末で退職させていただきたいです」
長い沈黙があった。壁の時計の音だけが聞こえた。
「柊先生がいなくなったら、本当に……」
園長は言いかけて、口を閉じた。封筒を持つ指が、机の上で止まっている。怒っている顔ではなかった。ただ、どこから手をつければいいのかわからない人の顔だった。
増員は間に合わなかった。三島主任は休職に入ったまま戻れていない。次は私だった。
「このまま続けたら、私も三島主任と同じになります」
それだけ言った。恨みではなかった。ただ、鏡で見た自分の顔が、もう隠せなかった。
園長は長い間黙っていた。そして、小さな声で「……わかりました」と言った。途方に暮れた声だった。
職員室に戻ると、美咲が私の顔を見て何かを察した。
「奈月ちゃん——」
「美咲、ちょっといい?」
空き教室で向かい合った。言わなければと思うほど、喉が詰まった。
「九月末で、この園を辞めることにした」
美咲は一度だけ瞬きをして、それから泣いた。
「奈月ちゃんがいなくなったら、私——」
「美咲も、無理しないでね。本当に」
美咲を抱きしめた。美咲の肩が震えていた。
夜、三島主任にLINEを送った。
『今日、退職届を出しました』
返事はすぐに来た。
『正しいわよ』
たった五文字。でもそれが、三島主任の十五年分の言葉だった。
でも、瀬野くんにどう伝えればいいのかだけは、まだわからなかった。




