どけないでください
主任代行になって三週間。持ち帰り仕事が増えた。
シフト調整表の修正。保護者向け通信の下書き。園長への報告メール。タブレットを開く前から肩が痛い。園のパソコンでは終わりきらなかった分を、家に持ち帰って夜中にやる。そういう日が週に三回になっていた。
金曜日の夜。蒼にLINEした。
『今日、そっちで作業していい?』
返信は速かった。
『マイク触ってると思うので、鍵開けておきます』
蒼の部屋に着いたのは二十時過ぎだった。蒼はデスクの前に座っていた。配信の準備だろう。マイクのチェックをしている。
「こっち、使ってください」
蒼がデスクの端を空けてくれた。小さなデスクに、椅子を二つ並べる。狭い。肘がぶつかる距離。
「ごめんね、狭くして」
「大丈夫です。僕はマイクとノートだけで済むので」
背中合わせにはならなかった。横並び。蒼のノートパソコンと、私のタブレット。蒼が配信の原稿をチェックしている横で、私はシフト表を睨んでいた。
二十二時。蒼がマイクのスイッチを入れた。
「そろそろ配信を始めても大丈夫ですか」
作業の邪魔にならないか、確認してくれているのだと思った。私は頷いた。
蒼の声が変わった。背筋が伸びて、呼吸が深くなる。隣に座っているのに、声が「夜凪」になる瞬間を、こんな近くで見るのは初めてだった。
——今日もおつかれ。
一万人のフォロワー、その夜の何百人かに向けられている声が、五十センチ隣で生まれている。私はイヤホンもつけていない。空気を通して、直接聴いている。
シフト表に目を戻した。でも指が止まっていた。低い声が、部屋の空気を少しだけ震わせている。デスクを共有しているから、蒼が息を吸う前の間まで伝わってくる。
配信は三十分で終わった。蒼がマイクを切って、ふうっと息を吐いた。肩の力が抜けて、「夜凪」が消える。隣にいるのは蒼に戻っている。
「終わりました」
「うん。おつかれ」
「なつきさんは?」
「あと少し」
蒼は椅子を引いてベッドに移動した。「終わるまで、ここで待ってます」と言って、壁にもたれた。スマホに目を落としているけれど、私が顔を上げればすぐ気づく距離だった。
二十三時。シフト表がようやく終わった。保存して、タブレットを閉じた。肩が痛い。首が回らない。三週間分の疲れが、一気に来た気がした。
ベッドの方を見た。蒼がスマホを膝の上に置いたまま、目を閉じていた。寝ているのか起きているのか、わからない。
立ち上がった。帰らなきゃ。終電はまだある。
「なつきさん」
蒼の目が開いた。起きていた。
「疲れてますよね」
「大丈夫」
言ったあとで、自分でも聞き飽きた返事だと思った。蒼は否定も追及もしないで、ベッドの端を少し空けた。
「……少しだけ、横になりませんか」
断るべきだった。帰って、自分のベッドで寝るべきだった。でも体が先に動いた。ベッドの端に腰を下ろして、そのまま横になった。蒼の枕の匂いがした。柔軟剤の匂い。
蒼が反対側に横になった。天井を見ている。二人の間に拳一つ分の隙間がある。
蒼が、私の枕元に左腕を置いた。
少し迷ってから、私はその腕に頭を預けた。蒼の腕は細いけれど、温かかった。
体の力が、全部抜けた。
三週間ぶんの、シフト表と保護者対応と園長への報告書と、三島主任の空いた席と、桐谷さんの震える手と、全部が遠くなった。蒼の腕だけが近かった。
「……重い?」
「重いです」
「どける?」
「どけないでください」
蒼の胸の上に手を置いた。心臓の音が伝わってきた。速い。穏やかな顔をしているのに、心臓だけが正直だ。
「緊張してるの」
「してます。すごく」
笑った。主任代行になってから、声を出して笑ったのは久しぶりだった。
「なつきさん」
「ん」
「月曜からまた大変ですか」
「たぶん」
「じゃあ金曜の夜、また来てください。作業してもいいし、しなくてもいいので」
目を閉じた。蒼の腕の上で、三週間ぶりに深く眠った。
朝、目が覚めたとき、蒼の腕はまだ私の首の下にあった。完全に痺れていた。
「ごめん——」
「いいです。よく眠れたなら」
蒼が痺れた腕をぶらぶら振りながら、少しだけ笑った。
蒼のそんな言い方に笑ってしまって、私はもう次の金曜日のことを考えていた。




