泊まっていきなよ
蒼の部屋には何度か行ったけど、蒼が私の部屋に来るのは初めてだった。
日曜日の午後。「散歩の帰りに寄りませんか」と蒼が言い出して、断る理由がなかった。気づいたら頷いていた。でも玄関のドアを開けた瞬間、後悔した。
シンクに昨日のマグカップが残っている。洗濯物が椅子の背にかかったまま。テーブルの上にはコンビニの袋とレシート。
「ごめん、散らかってて」
蒼は靴を脱ぎながら部屋を見回して、何も言わなかった。それが逆にきつかった。
「飲み物、コーヒーしかないけど」
「コーヒーで大丈夫です」
インスタントコーヒーを二つ淹れた。蒼がローテーブルの前に座って、マグカップを両手で包んだ。私が向かいに座ると、蒼の目がテーブルの上を見た。コンビニのレシートが三枚。全部夕飯だ。
「なつきさん、毎晩これですか」
「うん、まあ」
蒼は何も言わなかった。でもコーヒーを飲む手が、少しだけ止まった。
テレビをつけた。日曜の夕方のバラエティ。二人とも笑える番組を選んだつもりだったのに、なんだか気まずい。部屋に人がいるのが久しぶりすぎて、距離感がわからない。
「やっぱり散らかってるよね」
蒼がふっと笑った。
「生活感があっていいと思います」
フォローだとわかっていても、声のトーンが穏やかで、嘘じゃない気がした。
「蒼の部屋はきれいだったのに」
「物がないだけですよ」
「私は物はないのに散らかってる」
「それも、なつきさんっぽいですよ」
話しているうちに窓の外が暗くなった。時計を見たら八時を過ぎていた。
「そろそろ、お暇しますね」
蒼が立ちかけたとき、窓の外で雨が降り始めた。さっきまで晴れていたのに。梅雨の不意打ちだった。
「泊まっていきなよ」
口から出た。自分でも驚いた。蒼が立ちかけた体勢のまま固まっている。
「いいんですか」
「雨やむまで待ってたら、終電なくなっちゃうでしょ?」
理由をつけた。嘘だ。終電はまだある。でも蒼も気づいていて、気づいていないふりをしてくれた。
「じゃあ、お言葉に甘えます」
蒼がソファに座り直した。私はベッドの方を指さした。
「ベッド使って。私はソファで」
「逆でしょう」
「お客さんだから」
「なら帰ります」
「帰らないで」
また口から出た。蒼が黙った。耳が赤い。私も赤い。テレビの音だけが流れていた。
「じゃあ、ベッド、一緒で大丈夫だから」
「えっ」
「ちゃんと端っこで寝るし、蒼も端で寝てくれたら、間に空くでしょ」
自分でも何を言っているのかよくわからなかった。蒼は黙ったまま、小さく頷いた。
「……はい」
歯ブラシは予備を出して、タオルは新しいのを渡した。
蒼が私のTシャツを借りて着替えてきた。胸元に園のマスコット、うさぎのみみちゃんがプリントされている。鏡の前で、蒼が真顔のまま固まった。
「これ、なんですか」
「うちの園のキャラ。みみちゃん」
「みみちゃん」
「もらいもの。似合ってるよ」
「似合ってないです、たぶん」
真面目に答えるから、つい吹き出してしまった。
電気を消した。
ベッドが二人で並ぶには狭くて、互いに反対側を向いて横になった。背中越しに蒼の呼吸が聞こえる。規則正しくない。起きている。
「起きてる?」
「起きてます」
「眠れない?」
「なつきさんが、隣にいるので」
どういう意味だろう。聞けなかった。
しばらく黙っていた。雨の音が窓を叩いている。私は寝返りを打って、蒼の方を向いた。蒼も、同じタイミングで振り向いた。
毛布の下で、手のひらがぶつかった。蒼の指先に触れた。蒼の手が、私の指を包んだ。手のひらが温かかった。
そのまま、指を絡めたまま、どちらともなく眠った。
朝。光で目が覚めた。カーテンの隙間から七月の朝日が差し込んでいた。雨はやんでいた。
横を見た。蒼がまだ眠っていた。すぐ隣で、私のTシャツを着たまま。前髪が顔にかかっている。Tシャツの袖から、蒼の指先がのぞいていた。寝息が聞こえる。普段の「ちゃんとした年下」ではない、無防備な顔だった。
起こさずにキッチンに立った。コーヒーを淹れた。インスタントだけど、二人分。昨日と同じマグカップに、今日は二つ。
蒼が起きてきた。前髪を押さえながら、まだ目が半分閉じている。
「おはようございます」
敬語のまま。寝起きの声がいつもより低い。配信の声に近い。
「コーヒー、どうぞ」
「ありがとうございます」
テーブルの上に、マグカップが二つ並んだ。昨日までは一つだった場所に。
蒼が両手でマグカップを包んだ。昨日と同じ仕草。私もコーヒーを一口飲んだ。
蒼のスマホが鳴った。画面を見て、蒼がふっと吹き出した。
「凛から、なんですけど」
「妹さん?」
「バイト先の先輩に告白されて、断り方を僕に相談してきました」
画面を見せてくれた。長文の LINE。下の方に『お兄ちゃんなら冷静に判断できるでしょ』と書いてあった。
「凛ちゃん、お兄ちゃんっ子だね」
「いえ、便利なだけです、僕は」
「返信、一緒に考えようか?」
「いえ、自分でやります。これは凛が決めることなので」
その真面目さが、なんだか温かかった。蒼が画面に文字を打ち始めた。私は邪魔しないように、コーヒーを飲んだ。
窓の外で、雨上がりの空が青かった。




