蒼の声が、遠い
日曜日。蒼と公園を歩いていた。
六月の終わり。梅雨の合間の晴れた日で、木漏れ日がベンチに斑模様を作っていた。蒼が買ってきた缶コーヒーを受け取って、並んで座った。蒼の肩が近い。風が吹いて、私の髪が蒼の腕に触れた。蒼は動かなかった。
蒼が缶コーヒーを渡すとき、指先が触れた。冷たい缶の向こうに、温かい指があった。蒼は気づいていないふりをしていた。でも耳が少し赤かった。
「なつきさんは、自分のために何がしたいですか」
蒼が聞いた。缶コーヒーを両手で持って、前を見たまま。
「自分のために?」
「はい。仕事とか、誰かのためとか関係なく。なつきさん自身が、やりたいこと」
考えた。缶コーヒーを両手で温めながら、ほんとうに考えようとした。でも何も浮かばなかった。料理? でも自分ひとりのためだけに鍋を出す気力が、今はない。旅行? 有給を一度も取ったことがなかった。趣味? 睡眠以外に何も浮かんでこない。
「私のため、か。あんまり考えてこなかったかも」
蒼は何も言わなかった。急かさなかった。黙って隣を歩いてくれた。
公園の出口に向かう途中、私の頭の中で別のことが回り始めた。月曜の配置表。三島主任が先週二日休んだから、シフトを組み直さないといけない。夏祭りの買い出しリスト。桐谷さんへの返信を書かなきゃ。
蒼が何か言っていた。
「——で、凛が最近学校で」
声が遠い。聞こえているのに、意味が頭に入ってこない。蒼は妹の話をしているのだろう。大事な話かもしれない。でも私の頭は、月曜のシフトに持っていかれていた。
「ごめん、なんて言った?」
「あ、いえ。大した話じゃないです」
蒼は笑った。でも目が笑っていなかった。缶コーヒーを両手で持ったまま、しばらく公園の木を見ていた。
帰宅して、部屋のドアを閉めた。スマホにLINEが来ていた。
『今日、楽しかったです』
それだけ。いつもなら次の約束を聞いてくるのに、今日は聞いてこなかった。
楽しかった。はずだ。缶コーヒーの温度も、風に触れた髪も、蒼の肩の近さも、全部覚えている。でも何を話したか、記憶の中にない。
三島主任の欠勤が増えている。次は誰が、あの席に座るのだろう。




