震える声のむこう
桐谷さんが来たのは、朝の送迎時間だった。
ひなたちゃんの手を引いて、いつもより少し早い時間に玄関に立っていた。きっちりしたワンピースに巻き髪。ネイルが光っている。でも巻き髪が少し乱れていた。
「柊先生、お時間よろしいですか」
「はい、もちろんです。こちらへどうぞ」
相談室に通した。小さなテーブルを挟んで向かい合う。桐谷さんは鞄からA4のファイルを出した。ひなたちゃんの発達記録を自分でまとめたもの。付箋が何十枚も貼ってある。
「先日、ひなたが家で泣いて帰ってきたんです。給食のお味噌汁をこぼして、みんなに笑われたって」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。その件については——」
「あと、ひなたが給食を食べきれていないようなんですが、園ではどんな様子か、書面でまとめていただけますか。アレルギーではないので、家庭での参考にしたくて」
丁寧だった。いつも通り丁寧で、いつも通り隙がない。私はメモを手元に取りながら、桐谷さんの質問に一つずつ答えていった。
十五分ほど話した頃だった。桐谷さんの声が、ほんの一瞬、揺れた。
「ひなたが——周りの子と同じようにできないのは」
桐谷さんの手がテーブルの上で止まった。ファイルを持つ指先が白くなっている。
「私の育て方が、悪いんでしょうか」
声が震えていた。「書面で出してください」と言う声と、同じ喉から出ているとは信じがたい。
私は何か言おうとした。「そんなことありません」と。でもその言葉は、保育士として何百回も使ってきた定型文だった。桐谷さんには届かない気がした。
「ひなたちゃん、お迎えのチャイムが鳴ると一番に玄関を見るんです。お母さんかなって」
それだけ言った。桐谷さんは一瞬だけ目を伏せて、すぐに顔を上げた。
「すみません、変なこと聞いてしまって」
桐谷さんが一度だけ深く息を吐いた。
「とにかく、対応はお願いします」
声はもう震えていない。ファイルをゆっくり鞄へしまいながら立ち上がって、「失礼します」と言った。背筋は、最後までまっすぐだった。
夕方、三島主任がやってきて、私のデスクに対応報告書の用紙を置いた。桐谷さんの件、書いておいてということだ。
「あなた、こういうの得意でしょ」
得意なわけじゃなくて、ただ断らないだけ。それでも私は「はい」と答えてしまう。
帰り道、桐谷さんの震える声が頭から離れなかった。あの人もきっと怖いんだ。ひなたちゃんが周りと同じにできないことも、それが自分の育て方のせいかもしれないことも。でも怖いって言えないから、ずっと丁寧な言葉で固めるしかなかったんだろう。私もそうだから、わかる。




