声だけなら、救える
「もしよかったら、僕の部屋に来ませんか。見せたいものがあって」
水曜日の帰り際、園の駐車場で二人になった瞬間に、蒼は小さな声でそう言った。前髪を触る手が少し震えていた。
私は頷いて、土曜日の午後に行くね、と返した。
その夜から土曜日まで、家にいる時間がやけに長く感じられた。木曜日も金曜日も、夜になるとクローゼットを開けては閉じるのを繰り返していた。仕事用のブラウスばかりが並ぶ中から気合いを入れすぎても入れなさすぎても違う気がして、結局決まらないまま週末を迎えてしまった。
土曜日の午後。蒼の部屋は、保育園から徒歩十分のところにあった。築浅の1K。日当たりがよく、カーテンが白くて、驚くほど物が少なかった。
「部屋、きれいだね」
「あんまり物を増やさないようにしてて」
部屋の隅に、それはあった。小さなデスクの上にスマホスタンドとコンデンサーマイク。画面には夜空のアバターが待機していた。
「これって、もしかして」
「はい、配信用です」
蒼はデスクの前の椅子に座った。いつもの控えめな姿勢が、マイクの前だと少し変わる。背筋がまっすぐになった。
「ねえ、配信始めたきっかけ聞いてもいい?」
蒼はしばらく考えてから、妹の凛の話をしてくれた。高校のころ、夜なかなか眠れない子だったこと。毎晩電話して、眠りにつくまで声を聴かせてやっていたのだという。
「凛が『お兄ちゃんの声聞くと眠れる』って言ってくれて。それで、もしかしたら他にも眠れない人がいるかもしれないと思って」
「それで配信を?」
「はい。最初は五人くらいしか聴いてなかったんですけど。でも、その五人が毎晩聴きに来てくれて。『今日も癒されました』とか『眠れました』ってコメントを残してくれて、それが嬉しくて続けてたら、少しずつ聴いてくれる人が増えていきました」
話しているうちに蒼の耳が少し赤くなっていた。
「夜凪のイメージって、聴いてる人の中でもう出来上がってると思うんです。現実の僕を見せたら、それを塗り替えちゃう気がして。声のままでいるほうが、たぶん夜凪でいられるんです」
小さな声だった。机の上のマイクを見ながら、ぽつりと続ける。配信の自分と現実の自分は違う、とでも言いたそうだった。
「実は、配信で読もうと思ってる文章があるんですけど。聴いてもらえますか」
蒼が本棚から薄い文庫本を取り出した。詩集だった。付箋が何枚か貼ってある。
「まだ練習中なので、なつきさんが最初のリスナーです」
私はベッドに浅く腰掛けた。
蒼が椅子に座り直した。姿勢が変わった。背筋がまっすぐになって、呼吸が深くなる。デスクの前に座っただけなのに、空気が切り替わるのがわかった。
そして、読み始めた。
低い声が、部屋に満ちた。イヤホン越しでも画面越しでもない。隣にいる人の喉から生まれた声が、空気を振るわせて、直接私の耳に届いている。同じ声なのに、温度が違った。
目を閉じたら、泣きそうだった。「現実のあなたも、私を救ってるよ」そう言いたかったのに、声にならなかった。言ったら、自分がどれだけ救われているか認めることになる。認めたら、この人なしではもう夜を過ごせない自分に気づいてしまう。
蒼の声が止んだあと、その余韻だけが部屋を満たしていた。私はそれをずっと聴いていたかった。
スマホが光った。三島主任からのメールだった。月曜の朝礼資料の確認依頼。明日でも間に合う話だった。私は画面を伏せて、シーツの上に置いた。
「ごめん。続けてもらっていい?」
「はい、もちろん」
蒼が次のページを開いた。低い声が、また部屋に満ちた。今度は目を閉じなかった。文庫本のページをめくる指先まで、ちゃんと見ていた。
二編目を読み終えるとき、蒼が一度、文庫本を閉じた。
「ここ、座ってもいいですか」
蒼が立ち上がって、ベッドの私の隣に座った。指一本ぶんの距離。それから少しだけ、蒼の肩が私の肩に触れて、動かなかった。
「最後の一編、ここで読んでもいいですか」
「うん」
彼の声が、隣で響いた。さっきまでよりもっと近くて、息継ぎの間まで聞こえた。
読み終えたあと、蒼が小さく笑った。
「こんなふうに、隣で聴いてもらったの、たぶん初めてです」
「ありがとう。聴かせてくれて」
「今日、来てくれてありがとうございました。なつきさんに、見せたかったんです」
蒼は「現実の自分を見せたい」と思ってくれた。私はまだ、見せられない。でも、肩の温度は、ちゃんと現実だった。




