職場では他人のふり
月曜日の朝。職員室に入ったら、瀬野くんがもう自分の席についていた。目が合った瞬間、ほんの一瞬だけ口元が動いた。笑顔を作りかけたのに、途中でそれ以上動かすのをやめた。私のほうも、同じだった。
付き合い始めて五日目。職場では、二人の間に起きたことなど何もなかったように過ごしている。「瀬野くん」「柊さん」。お互いに敬語を使った。告白の前と同じ距離。同じじゃないといけなかった。
「おはよう、奈月ちゃん。なんか今日、顔色いいね」
同僚の美咲が横から覗き込んできた。
「そう? 別に、いつもと同じだよ」
「えー、なんか最近楽しそうだよ。彼氏でもできた?」
心臓が跳ねた。エプロンの裾を握る手が、自然と固くなる。
「まさか。忙しくてそんな暇ないよ」
美咲は「ふーん」と言って、自分のクラスに向かっていった。疑っている感じではなかった。美咲は勘が鋭いようで鈍い。
美咲がクラスに向かったあと、私はそれまでより少しだけ熱心に連絡帳を書いた。集中していないと、何度も時計を見てしまいそうだった。
夕方、瀬野くんが定時で帰り支度を始めるのが目の端に映った。お疲れさまでしたとも言わなかった。今日、あとで会うから。私は残業しながら、化粧室に立つタイミングだけは計っていた。前髪を直して、十九時に園を出た。駅前のファミレスに入ると、奥のボックス席に蒼が座っていた。
初デートがファミレス。私たちらしい。
「すみません、もっといいところ探したんですけど、結局僕、こういうところしか知らなくて」
「ここでいいよ。落ち着くし」
メニューを開いた蒼が、ふと顔を上げた。
「なつきさん、プリン好きでしたよね。デザートにありますよ」
蒼はコンビニでのあの会話を覚えてくれていた。頬が熱くなって、きっと耳まで赤くなっているのがわかる。私は彼の手からメニューを引き取って、顔の前にかざした。
「メニュー先に見るね。私はハンバーグにする。プリンは、最後の楽しみで」
「僕もハンバーグにします」
同じものを頼んで、運ばれてきたハンバーグを並べて食べた。蒼は話題に困っているのか、ナイフとフォークを丁寧に動かしながら黙っている。でも、その沈黙は嫌いじゃない。向かい合って、同じテーブルで同じものを食べているというそれだけのことで、十分だった。
「なつきさんは、ハンバーグ好きですか」
「好きだよ。自分で作ることはあんまりないけど」
「僕、料理できないので。コンビニと学食で生きてきた人間です」
思わず笑った。蒼も笑う。視線が合ったまま、目が細くなった。
デザートのプリンを食べているとき、スマホが震えた。画面を見て、私の顔が変わったのがわかった。桐谷さんからの個別連絡が、画面に表示されている。
『明日の送迎時にお話ししたいことがあります。担任の方にお時間を取っていただけますか』
蒼が私のスマホをちらりと見て、目を戻した。
「何かありました?」
「仕事の連絡が来ちゃって。急ぎじゃないんだけどね」
「そっか。気になっちゃいますよね、こういうの」
「うん、ちょっとね。でも、あとで返す」
蒼は静かにそう言った。怒っていない。責めてもいない。でもその声は、少しだけ配信のときのトーンに近かった。低くて優しく、距離がある声。
甘い時間の中に、仕事の連絡が割り込んでくる。




