好きです
子どもたちが帰った後の保育室は、不思議なくらい静かだった。
六月の夕方。窓の外で紫陽花が雨に濡れている。片づけを終えた私は、ロッカーの前で立ち止まった。今日こそ言おう。そう決めて出勤したのに、朝から一度も二人きりになれなかった。
廊下で瀬野くんを見つけた。非常階段のところで、一人で立っていた。スマホを見ている。こえつきのアイコンが光っている。今夜の配信の準備だろうか。
「瀬野くん」
声が廊下に響いた。自分の声がこんなに大きいとは思わなかった。瀬野くんが振り向いた。前髪を指で流す仕草。
「柊さん、まだいたんですか」
「ちょっと、話したいことがあって」
瀬野くんの目が少しだけ広がった。非常階段のドアを開けて、「ここ、いいですか」と言った。私は頷いた。
コンクリートの踊り場。雨の匂いがした。窓から差し込む夕方の光が、瀬野くんの横顔を照らしている。
言葉を選んでいる時間はなかった。選んだら、きっと言えなくなる。
「私、夜凪さんの配信、聴いてます」
瀬野くんが固まった。息を吸う音が聞こえた。
「……え、いつから」
「スマホで、こえつきのアイコンが見えて。それで気になって、探して」
「探したんですか」
「うん。『寝かしつけ』で検索したら、出てきた」
瀬野くんは壁に背中をつけた。前髪を流す手が、二度繰り返された。困ってる、たぶん。
「毎晩聴いてます。見つけた日から、ずっと」
「……ずっと、って」
「ライブの途中から聴いて、それから毎晩」
沈黙が降りた。雨の音だけが聞こえた。瀬野くんは俯いて、自分のスニーカーの先を見ていた。
「怒ってる?」
私が聞いた。瀬野くんは首を横に振った。
「怒ってないです。ただ、驚いて。配信のこと、職場の人に知られたくなかったから」
「ごめんなさい。勝手に聴いて」
「いいんです。柊さんなら」
そこで瀬野くんは口を閉じた。コンクリートの壁に背中を預けたまま、何かを決めるように黙っている。
「配信で言った、気になる人」
瀬野くんの声が低くなった。雨音に消えそうなほど、か細い声だった。
「柊さんのことです」
呼吸を忘れた。エプロンの裾を握っていた手が、いつの間にか力を失っていた。
「年上で、面倒見がよくて、自分を大事にしない人。ずっと、気になってました」
私は何か言おうとした。でも声が出ない。代わりに、涙が出た。泣くつもりなんてなかったのに。
「す、すみません、泣かせるつもりじゃ——」
「違う。泣いてるんじゃなくて」
違う。嬉しいんだと思う、たぶん。誰かに「気になっている」と言われるのが、こんなに——なんて言うんだろう、こんなに、なんか、ぐっと来るとは、知らなかった。必要とされるのと、気にかけてもらうのと。なんか、違う。違うんだ、ぜんぜん。
「私も、瀬野くんのことが好きです」
言葉はぎこちなく、声が震えていた。二十七歳の告白にしては、あまりにも不格好だった。でも瀬野くんは目を細めて笑った。あの笑い方。プリンのときと同じ、目が細くなる笑い方。
「ありがとうございます」
瀬野くんがそう言って、前髪に触れた。それから、初めて見る笑顔を見せた。目が細くなって、少しだけ歯が見える。職場では絶対に見せない、この人だけの顔。
「あの——明日から、なつきさんって呼んでもいいですか」
心臓が跳ねた。「なつきさん」。配信のリスナー「なつ」でもなく、「柊さん」でもなく。
頬が熱くなるのが分かった。
「うん。いいよ。……そう呼んでくれたら、嬉しい」
言ってから、自分でも顔が赤くなっているのが分かった。瀬野くんは目を見開いて、それから、息を吸って、一歩、私の方に踏み出した。
次の瞬間、瀬野くんの腕が私の背中に回った。ぎゅっと、ぎこちなく。
頭が瀬野くんの肩に押し当たっていた。私の方が背が低い。十センチくらい。瀬野くんの白いTシャツから、洗剤の匂いがした。それと、たぶん、本人の匂い。
「すみません、つい」
謝りながらも、瀬野くんは私を離さなかった。私も、離れたくなかった。
雨がやんでいた。いつの間にか。窓の向こうに、薄い夕焼けが差し込んでいた。
しばらくしてから、瀬野くんがそっと体を離した。耳が真っ赤だった。
「あの、駅まで、一緒に帰ってもいいですか」
「うん」
今日初めて、繕わずに「うん」と言えた気がした。非常階段のドアを開けて、廊下に出る。並んで歩く距離が、さっきよりずっと近かった。
「あの、なつきさん」
もう呼んだ。私は笑ってしまった。
「呼ぶの早いよ」
「すみません、つい。なんか、嬉しくて」
瀬野くんも笑った。私も笑った。廊下に二人の笑い声が短く響いた。職場で、こんな声を出したのは、初めてだった。




