表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
園に来た男の子が配信者だと知ってから、帰り道が長い  作者: ユキ@異世界転生と俺TUEEEはもう辞めて現実的に生きよう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/22

好きです

 子どもたちが帰った後の保育室は、不思議なくらい静かだった。


 六月の夕方。窓の外で紫陽花が雨に濡れている。片づけを終えた私は、ロッカーの前で立ち止まった。今日こそ言おう。そう決めて出勤したのに、朝から一度も二人きりになれなかった。


 廊下で瀬野くんを見つけた。非常階段のところで、一人で立っていた。スマホを見ている。こえつきのアイコンが光っている。今夜の配信の準備だろうか。


「瀬野くん」


 声が廊下に響いた。自分の声がこんなに大きいとは思わなかった。瀬野くんが振り向いた。前髪を指で流す仕草。


「柊さん、まだいたんですか」


「ちょっと、話したいことがあって」


 瀬野くんの目が少しだけ広がった。非常階段のドアを開けて、「ここ、いいですか」と言った。私は頷いた。


 コンクリートの踊り場。雨の匂いがした。窓から差し込む夕方の光が、瀬野くんの横顔を照らしている。


 言葉を選んでいる時間はなかった。選んだら、きっと言えなくなる。


「私、夜凪さんの配信、聴いてます」


 瀬野くんが固まった。息を吸う音が聞こえた。


「……え、いつから」


「スマホで、こえつきのアイコンが見えて。それで気になって、探して」


「探したんですか」


「うん。『寝かしつけ』で検索したら、出てきた」


 瀬野くんは壁に背中をつけた。前髪を流す手が、二度繰り返された。困ってる、たぶん。


「毎晩聴いてます。見つけた日から、ずっと」


「……ずっと、って」


「ライブの途中から聴いて、それから毎晩」


 沈黙が降りた。雨の音だけが聞こえた。瀬野くんは俯いて、自分のスニーカーの先を見ていた。


「怒ってる?」


 私が聞いた。瀬野くんは首を横に振った。


「怒ってないです。ただ、驚いて。配信のこと、職場の人に知られたくなかったから」


「ごめんなさい。勝手に聴いて」


「いいんです。柊さんなら」


 そこで瀬野くんは口を閉じた。コンクリートの壁に背中を預けたまま、何かを決めるように黙っている。


「配信で言った、気になる人」


 瀬野くんの声が低くなった。雨音に消えそうなほど、か細い声だった。


「柊さんのことです」


 呼吸を忘れた。エプロンの裾を握っていた手が、いつの間にか力を失っていた。


「年上で、面倒見がよくて、自分を大事にしない人。ずっと、気になってました」


 私は何か言おうとした。でも声が出ない。代わりに、涙が出た。泣くつもりなんてなかったのに。


「す、すみません、泣かせるつもりじゃ——」


「違う。泣いてるんじゃなくて」


 違う。嬉しいんだと思う、たぶん。誰かに「気になっている」と言われるのが、こんなに——なんて言うんだろう、こんなに、なんか、ぐっと来るとは、知らなかった。必要とされるのと、気にかけてもらうのと。なんか、違う。違うんだ、ぜんぜん。


「私も、瀬野くんのことが好きです」


 言葉はぎこちなく、声が震えていた。二十七歳の告白にしては、あまりにも不格好だった。でも瀬野くんは目を細めて笑った。あの笑い方。プリンのときと同じ、目が細くなる笑い方。


「ありがとうございます」


 瀬野くんがそう言って、前髪に触れた。それから、初めて見る笑顔を見せた。目が細くなって、少しだけ歯が見える。職場では絶対に見せない、この人だけの顔。


「あの——明日から、なつきさんって呼んでもいいですか」


 心臓が跳ねた。「なつきさん」。配信のリスナー「なつ」でもなく、「柊さん」でもなく。


 頬が熱くなるのが分かった。


「うん。いいよ。……そう呼んでくれたら、嬉しい」


 言ってから、自分でも顔が赤くなっているのが分かった。瀬野くんは目を見開いて、それから、息を吸って、一歩、私の方に踏み出した。


 次の瞬間、瀬野くんの腕が私の背中に回った。ぎゅっと、ぎこちなく。


 頭が瀬野くんの肩に押し当たっていた。私の方が背が低い。十センチくらい。瀬野くんの白いTシャツから、洗剤の匂いがした。それと、たぶん、本人の匂い。


「すみません、つい」


 謝りながらも、瀬野くんは私を離さなかった。私も、離れたくなかった。


 雨がやんでいた。いつの間にか。窓の向こうに、薄い夕焼けが差し込んでいた。


 しばらくしてから、瀬野くんがそっと体を離した。耳が真っ赤だった。


「あの、駅まで、一緒に帰ってもいいですか」


「うん」


 今日初めて、繕わずに「うん」と言えた気がした。非常階段のドアを開けて、廊下に出る。並んで歩く距離が、さっきよりずっと近かった。


「あの、なつきさん」


 もう呼んだ。私は笑ってしまった。


「呼ぶの早いよ」


「すみません、つい。なんか、嬉しくて」


 瀬野くんも笑った。私も笑った。廊下に二人の笑い声が短く響いた。職場で、こんな声を出したのは、初めてだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ