第86話 新しい家族との距離
ラプティが借家へ来てから最初の数日は、とにかく落ち着かなかった。
朝、カケルが水を汲みに立てば、その後ろをラプティがついて回る。鍋を火にかければ、何をしているのか気になるのか、首を伸ばして覗き込んでくる。
「ラプティ、熱いからそこ行かないの!」
くちばしの先が鍋の縁へ近づく前に、カケルが慌てて押しとどめる。ラプティは「ケー?」とでも言いたげに首を傾げたあと、次の瞬間には別のものへ興味を移していた。
今度は高い場所だ。
ほっぺが棚の上で羽を整えているのを見つけたらしい。目を輝かせたように一歩踏み出し、ぐっと首を伸ばす。
「ピーーーーーイ!」
危険を察したほっぺが高く鳴いて飛び上がる。ラプティはそれに驚くより先に楽しそうにぴょんと跳ねた。
「ラプティ! パニック起こしてるから追いかけちゃ駄目!」
リアナが飛んでいく。けれど、ラプティは悪びれた様子もなく、今度は窓辺の枝へ目を向けた。
そこにはワサビ君がいる。
じっとしているワサビ君を、不思議そうに覗き込む。もう少しで鼻先が触れそう、というところで、カケルが間に入った。
「そっちも行かないの。ワサビ君は、じっと見られるの好きじゃないんだよ」
ラプティは止められてようやく足を止めたものの、納得していないらしい。ワサビ君を見て、カケルを見て、またワサビ君を見る。
その日の午後には、今度はキョロとチョロの近くで大騒ぎになった。
部屋の隅で二匹が糸を張っているのを見つけたラプティが、面白そうに顔を寄せたのだ。ぴんと張られた糸にくちばしを近づけたところで、リアナが叫ぶ。
「ラプティ、それ触らない!」
慌てて首を引っ込めたラプティの目の前を、キョロがぴょんと飛び移る。それがまた気になったらしい。今度は前脚を一歩出す。
「待って待って待って、ラプティ! それ近づいたら壊れちゃうから!」
今度はカケルが飛んだ。
横では茶渋が、呆れたようにしっぽを揺らしている。そして、様子を見に近づいたラプティの鼻先へ、ためらいのない猫パンチを一発入れた。
ぺしん、と小気味いい音がする。
「ケェ!?」
さすがに驚いたのか、ラプティが半歩下がった。茶渋はそれ以上追わず、ふんとでも言いたげにそっぽを向いて歩いていく。
「……茶渋、ちょっとかっこよかったわね」
「うん。でも、ラプティはあんまり懲りてなさそうだね」
翌日も、その次の日も、ラプティの好奇心はまるで衰えなかった。
ほっぺを見つければ追いかける。
ワサビ君を見れば覗き込む。
キョロとチョロの近くでは糸に興味津々。
そのたびに、リアナとカケルの声が飛ぶ。
「ラプティ、待ちなさい!」
「そっち行かないの!」
「こら、それ触らない!」
「ほっぺを驚かせない!」
「ワサビ君は静かにしてたいんだって!」
借家の中は、毎日そんな調子だった。
数日が過ぎる頃には、さすがに変化が見え始める。
ほっぺは高い位置へ避難することが増えた。
ワサビ君は【隠密】で姿を消している時間が増えた。
キョロとチョロは、ラプティが近づく気配だけで少し離れる。
茶渋はあからさまに機嫌が悪く、すれ違いざまに一度ならず二度も猫パンチを飛ばした。
そして、カケルとリアナの顔にも、うっすら疲れが出ていた。
「ラプティ! 待ってってば!」
その日も、借家の中にリアナの声が響く。
ラプティはテーブルの下を潜り抜け、今度は窓辺へ向かった。ほっぺが「ピーッ!」と鳴いて飛び上がる。
「ちょっと、またほっぺのところ行ってる!」
「俺が行く!」
カケルが立ち上がる。だがその間に、ラプティは方向転換して床を駆けた。
今度はワサビ君のいる枝のほうだ。
「そっちも行かない!」
リアナが飛ぶ。ラプティはぎりぎりのところで止まり、代わりにくるっと振り向いて、今度はキョロとチョロのほうへ走ろうとする。
「……ちょっと待って、この子ほんとに全部気になるの!?」
「多分そうだね!」
カケルもとうとう笑う余裕がなくなってきたらしい。けれど、止めないわけにもいかない。
しばらくして、ようやくラプティが満足したのか、部屋の真ん中でぺたりと伏せる。その頃には、カケルもリアナもぐったりしていた。
「はあ……」
椅子へ座り込んだリアナが、額の汗を拭う。
「元気すぎるわ、この子……」
「うん。想像以上だった」
向かいに腰を下ろしたカケルも、珍しく肩を落としている。
その時、ラプティは何事もなかったような顔で「ケー」と鳴いた。しかも、褒めてほしいみたいに尻尾を揺らしている。
リアナは思わず机に額をつけた。
「どうして、本人だけそんなに楽しそうなのよ……」
カケルは苦笑したが、その笑い方にも疲れが混じっていた。
「悪い子じゃないんだけどね」
「それはわかるのよ。わかるけど……もう少しこう、落ち着いてくれないかしら」
そこでふと、リアナは気づいた。さっきから、シルバーの姿が見えない。
「……あれ、シルバーは?」
カケルも部屋を見回す。
窓辺。
棚の横。
扉の近く。
少し遅れて、部屋の隅に銀色の毛並みが見えた。シルバーはそこに静かに伏せている。
呼べば来る距離なのに、自分からは近づいてこない。
「シルバー?」
リアナが呼ぶと、シルバーは顔を上げた。けれど、いつものようにすぐそばへ来るわけではない。
少ししてから、静かに立ち上がり、ゆっくりと歩いてくる。いつもならもっと先に、もっと嬉しそうに来るのに。
リアナは首をかしげた。
「……何か変じゃない?」
カケルはシルバーを見つめ、それからラプティを見た。ラプティは伏せたまま尻尾を揺らしている。
「そうだね」
リアナが手を伸ばすと、シルバーは素直に頭を寄せた。
けれど、どこか元気がない。
「なんで今日はシルバーまでそんな感じなのよ」
その言葉を聞いた瞬間、カケルが「あ、そうか」と小さく呟いた。
「え?」
カケルはシルバーを見て、それからリアナへ目を向けた。
「たとえばね」
「何よ」
「俺にもう一人弟子ができたとするでしょう」
リアナの眉がぴくりと動く。
「師匠の弟子は私だけよ!」
「うん、例え話だよ」
「例えでも嫌だわ!」
「そこはとりあえず置いといて」
カケルは苦笑しつつ続けた。
「その子はまだ弟子になりたてで、何もできないから、俺がずっとそっちにばっかりついてたとするでしょう」
リアナは腕を組んだまま、むっとした顔になる。
「……それは、まあ、そうなるかもしれないわね」
「うん。それで、その間ずっと、リアナさんには『大丈夫だよね』って後回しにしたら?」
今度は返事が早かった。
「悲しいし、ムカつくわ!!」
カケルはにこりと笑い、小さく頷く。
「……シルバーは、今そんな気持ちなんじゃないかな」
その言葉で、リアナの口が閉じた。
シルバーを見る。
大人しく、聞き分けがよくて、言わなくても待てる子。だから、つい後回しにしていたのかもしれない。
ラプティが走れば、そっちを止める。
ラプティがまた何か見つければ、そっちへ行く。
そうしているうちに、シルバーには「大丈夫よね」と甘えていた。
「……あ」
小さく漏れた声は、思ったより情けなかった。
「ラプティが悪いわけじゃないよ。目が離せないのは本当だしね」
「うん……」
「でも、シルバーは平気なわけじゃないと思う」
リアナはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりシルバーの前へしゃがみ込む。
銀色の毛並みに手を伸ばすと、シルバーは逃げずにじっとしていた。
「ごめんね、シルバー」
その声は、思ったより素直に出た。
「あなたが聞き分けいいからって、甘えてたわ」
シルバーがわずかに耳を動かす。
「ラプティのことばっかり見てた。あなたが大丈夫だって、勝手に思ってた」
そう言って、リアナはそっと額を寄せた。
「ごめんね」
短い沈黙のあと、シルバーが静かに鼻先を寄せてくる。それだけで、少し胸が痛くなった。
「……ほんと、優しすぎるのよ」
リアナが苦く笑った時だった。
横から、ぐい、と何かが割り込んでくる。
「きゃっ」
ラプティだった。
自分も混ざるのが当然だと思っているらしい。リアナとシルバーの間へ鼻先を突っ込み、構ってほしそうに「ケー!」と鳴く。
リアナは一瞬呆れたが、すぐに小さく息を吐いた。
「あなたもよ」
ラプティの顔を両手で挟み、しっかり見る。
「ラプティ。ほっぺを追いかけたら、あの子びっくりしちゃうの。ワサビ君はじっと見られるの好きじゃないし、キョロとチョロの糸に顔を近づけたら、あの子たちのおうちを壊しちゃうでしょう?」
ラプティはぴたりと動きを止めた。
「わかった?」
ラプティは首を傾げた。けれど、さっきまでみたいにすぐ動かない。
カケルが目を瞬く。
「……あれ」
「ん?」
「ちゃんと聞いてる?」
リアナもそこで気づいたらしい。ラプティを見たまま、少し目を丸くする。
「もしかして、この子……ちゃんと話せばわかるの?」
「最初からそうだったのかもね」
カケルは苦笑した。
「俺たちが、説明しても理解できないって決めつけてたのかも」
リアナはラプティを見て、シルバーを見て、それから深く息を吐く。
「……そうね。私、勝手にそう思ってたわ」
ラプティは「ケー」と鳴いた。どこか得意そうですらある。
リアナは思わず額を押さえた。
「ほんとにもう……」
それでも今度は、困ったように笑っていた。
「いい? ラプティ。あなたも大事。でも、シルバーも大事なの。順番もあるし、理由があることはちゃんと覚えなさい」
ラプティはしゃがんだまま、じっとリアナを見ている。
「だから、ちゃんとわかって」
少し間を置いて、ラプティは小さく「ケー」と鳴いた。
その返事が本当にわかっているものなのか、まだ断言はできない。けれど少なくとも、そのあとすぐにほっぺへ飛びつこうとはしなかった。
カケルが、ようやく少しだけ肩の力を抜く。
「これで落ち着いてくれるといいんだけど」
「ほんとよ」
リアナも椅子へ座り直す。その足元へ、今度はシルバーが静かに寄ってきた。
リアナが撫でる。少し遅れて、反対側からラプティも鼻先を伸ばす。
「順番」
そう言うと、ラプティはぴたりと止まった。
カケルとリアナが同時に顔を見合わせる。
「……やっぱり、わかってるんじゃない?」
「そうみたいね」
その時、扉の向こうから声がした。
「カケル、エアリスだ」
聞き慣れた声に、二人が顔を上げる。扉が開き、エアリスが顔を出した。
「エアリス?」
「うん。ちょっと伝言を預かってきた」
エアリスは部屋の中を見回した。シルバー、ラプティ、そして疲れの色がまだ少し残る二人。
「……何だか、ちょうど面白い場面に来た気もするけど」
「今は触れないでちょうだい」
リアナが即答する。エアリスは笑って肩をすくめた。
「了解。じゃあ本題だけ」
それから少しだけ表情を整える。
「辺境伯閣下に新しい召喚獣のことを伝えた結果、辺境伯家に来るようにとのことだよ」
借家の中に、少しだけ静けさが落ちた。
リアナはシルバーを見て、ラプティを見て、それからカケルを見る。新しい家族を迎えたばかりなのに、次はもう辺境伯家だ。
慌ただしい。そして同時に、少し緊張する。
「……来るように、か」
カケルが呟く。エアリスは軽く頷いた。
「うん。新しい召喚獣のこともあるし、一度顔を見せろってさ」
リアナはラプティの頭へそっと手を置いた。
「……忙しいわね、ほんとに」
執筆の励みになりますので、続きを読みたいと思っていただけたら、ぜひブックマークよろしくお願いします!評価もいただけると嬉しいです。
リアナの新しい召喚獣、ラプティのイメージです!
※AIで生成しています
イメージしにくいかなと思い、作ってみました。
本作の他にも、完結済みの作品を公開中です。
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