第76話 特別な日の孤児院
翌日。リアナとカケルは、約束を取りつけた時間に合わせて騎士隊の詰所を訪れていた。
詰所の一角にある応接用の部屋に通されてしばらくすると、扉が開き、エアリスが軽い足取りで入ってくる。
「待たせたね」
「いえ、ありがとうございます。時間を作ってもらっちゃって」
カケルがそう返すと、エアリスは向かいの席に腰を下ろした。視線が、まずリアナへ向く。
「それで、どうしたんだい?」
リアナは一度だけ頷き、街でターニャと出会ったことを、最初から順を追って話した。
シルバーに目を輝かせていたこと。
とても嬉しそうに撫でていたこと。
服や靴にあった違和感。
そして、急に「院長先生に怒られちゃう」と慌てて帰っていったこと。
話し終えると、エアリスはすぐには口を開かなかった。軽く腕を組み、少しだけ考えるように視線を落とす。
「聖ミレア孤児院か。あそこの院長は、評判がいいらしいね」
「評判が?」
リアナが眉をひそめると、エアリスは小さく頷いた。
「少なくとも、私の耳に入る範囲では、表立って悪い話は出ていない。視察が入っても、特に問題視されたことはなかったはずだよ」
カケルはそこで口を開く。
「俺はまだ、正直情報が少なすぎて判断できないなと思っています」
エアリスの視線がカケルへ移る。
「うん」
「リアナさんの違和感は気になります。でも、それだけで何かあるって決めるには材料が足りないです」
「うん。妥当だね」
穏やかに返してから、エアリスは少しだけ口元をゆるめた。
「しかし、気になるなら支援先として訪ねてみてもいいかもしれないね」
リアナが顔を上げる。
「本当に?」
「ああ。辺境伯家が支援している施設へ、娘である君が顔を出すのは不自然じゃない。慰問と様子見を兼ねて訪ねるなら、向こうも断れないだろう」
「それなら――」
リアナが言いかけるより先に、エアリスは続けた。
「僕のほうから訪問の連絡を入れておくよ」
「ありがとうございます」
カケルが頭を下げると、エアリスは肩をすくめた。
「まだ何かあると決まったわけじゃないからね。思い過ごしなら、それでいい」
「そうね」
リアナは頷いた。
「訪問は明日の午後でいいかな」
「はい」
「ええ」
リアナとカケルがそれぞれ返すと、エアリスは立ち上がった。
「じゃあ、こちらで話は通しておくよ」
リアナも立ち上がり、小さく息を吐く。
思い過ごしなら、それでいい。けれど、もしそうじゃないなら。
「……ターニャ」
小さくつぶやいた名前は、誰にも聞こえなかった。
────
その翌日。リアナたちはエアリスと合流し、聖ミレア孤児院へ向かっていた。
街の中心から少し外れた場所にあるその施設は、古びてはいたが、荒れているという印象はなかった。
白い壁はところどころ年季を感じさせるものの、大きく傷んではおらず、門の周りもきれいに掃き清められている。小さな花壇には季節の花まで植えられていた。
「……思っていたより、ちゃんとしてるわね」
リアナが小さく漏らすと、エアリスは穏やかに答えた。
「手は入っているようだね」
門をくぐると、すぐに中から人影が現れた。
五十代ほどの小柄な男で、丸みのある体つきに、柔らかな笑みを浮かべている。服装も落ち着いていて、一見しただけなら穏やかな世話役にしか見えない。
「ようこそお越しくださいました。聖ミレア孤児院の院長、アントン・ベルクマンです」
丁寧に一礼する姿は、礼儀正しく、落ち着いていた。
「辺境伯家のご令嬢がわざわざ足をお運びくださるとは、子どもたちもきっと喜びます」
「今日は慰問よ。かしこまらなくていいわ」
そう返しながらも、リアナはベルクマンの表情を見ていた。にこやかで、丁寧で、穏やかだ。自分の考えすぎだったのかもしれないと、ほんの一瞬だけ思った。
「子どもたちも、今日は朝から楽しみにしておりました」
ベルクマンがそう言って案内した先には、すでに何人かの子どもたちが並んでいた。みな髪を整え、服もきちんとしている。
その中に、見覚えのある小さな顔を見つけた。
「ターニャ……!」
名前を呼ばれたターニャがぱっと顔を上げる。一瞬で目を輝かせたが、次の瞬間、周囲の空気に気づいたようにきょとんとした。
そして、リアナの隣に立つエアリスや、丁寧に頭を下げるベルクマンを見比べて、目を丸くする。
「おねえちゃんはえらいひとだったのね!」
その声に、何人かの子どもたちがリアナのほうを見た。ベルクマンは一瞬だけ目を細めたが、すぐに笑みを崩さない。
リアナは思わず目を瞬いたあと、少しだけ苦笑する。
「え、えらい人っていうほどじゃないわよ」
そして、空気をほどくように笑って続けた。
「今日は、ターニャと他のお友達にも、動物さんたちと一緒に遊んでもらおうと思って来たの」
その一言で、ターニャの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「ほんとよ」
「じゃあ、またシルバー、なでてもいい?」
「もちろん」
その返事を待っていたみたいに、ターニャは嬉しそうにシルバーのほうへ駆け寄った。
そこをきっかけに、他の子どもたちの視線も、次々と家族たちへ向いていく。
「きいろの鳥さんだ」
「ねこだ……!」
「わ、おおかみもいる!」
エアリスの肩にとまっていたほっぺが、気分よさそうに鳴いた。
「ホッペチャン! オハヨウ!」
その声に、子どもたちから一斉に笑い声が上がった。緊張していた空気が、ふっとやわらぐ。
けれど、その輪の中にいながらも、何人かの子どもがときおりベルクマンのほうへ視線を向けるのが、リアナには妙に気になった。
茶渋は騒ぎすぎないように少し離れた場所から様子を見ていたが、すぐに静かな子どものそばへと歩いていった。
シルバーは相変わらず人気で、ターニャを中心に小さな輪ができていく。
そして、その中でも一番歓声を集めたのは、意外にもワサビ君だった。最初は「わ、トカゲ?」と少しだけ距離を取られていたが、カケルがそっと笑う。
「見ててごらん? ワサビ君、【隠密】」
そう声をかけると、ワサビ君の体色がすうっと周囲に溶け込んでいく。
「あれ?」
「きえた!」
子どもたちがきょろきょろと辺りを見回した、その次の瞬間。
「いたーー!!」
声を上げた子が指さしたのは、カケルの頭の上だった。いつの間に登ったのか、ワサビ君は相変わらずの我関せずといった顔で、じっとそこにいる。
「すごい!」
「いつのまに!?」
「もういっかいやって!」
「どこにいたの!?」
リアナは思わず口元をゆるめた。
もし本当に何もなかったとしても、この時間には意味がある。そんなふうに思えるくらい、子どもたちの顔は生き生きしていた。
そのときだった。
ターニャがシルバーの首元をそっと撫でながら、嬉しそうにこちらを振り向く。昨日見た服とは違う。生地もしっかりしていて、色合いも明るい。
「この服、特別な日だけなの! かわいいでしょ?」
くるりと裾をつまんで見せるターニャの頬は、嬉しさでほんのり赤い。
「シルバーに見てもらえて、うれしいの。シルバーのぎんいろもすてきだけど…」
嬉しそうに笑っていたターニャは、その次の瞬間、はっとしたように言葉を止めた。慌てて口をつぐむ仕草が、リアナの胸に小さく引っかかる。
特別な日だけ。
その言葉が、胸の奥にずしりと落ちる。
けれど、問い返すより先に、ターニャは小さな包みを抱えたまま、シルバーのそばにしゃがみこんだ。
「これ、少し分けてあげるね。特別だよ」
包みの中に入っていたのは、小さな焼き菓子だった。
「……それ、おやつ?」
リアナができるだけ自然に聞くと、ターニャはぱっと顔を上げる。
「うん! 今日はおやつがあるの。お客様の日だけなんだって」
悪気なんて、あるはずがない。ただ嬉しくて、嬉しいものを分けたくなっただけだ。
だからこそ、その言葉は余計に刺さった。
リアナは何も言えないまま、そっとカケルのほうを見る。カケルもまた、子どもたちの輪の向こうで静かに視線を向けてきていた。
言葉はない。けれど、その目を見ただけでわかる。
さすがに、これは。言葉にしなくても、そのくらいは伝わった。
「ありがとうございます、みなさま。子どもたちが本当に楽しそうだ」
にこやかな声が割り込んでくる。ベルクマンだった。
その笑顔はやわらかいけれど、今のリアナにはどこか薄く感じられた。
「ええ」
リアナは短く答えた。
「……そうね」
子どもたちの笑い声は変わらず響いている。
ワサビ君を探す声。
ほっぺの声に笑う声。
シルバーを撫でる小さな手。
それはきっと、本当に楽しい時間だ。
だからこそ、リアナの中で別の感情が、静かに輪郭を持ちはじめていた。
この子たちにとって、これは「特別な日」なのだ。
きれいな服も。
おやつも。
こんなふうに笑える時間も。
孤児院を出るころには、陽は少し傾き始めていた。
見送りのために並ぶ子どもたちの中で、ターニャが何度も手を振っている。その笑顔に振り返しながらも、リアナの胸の中は晴れなかった。
門を離れてしばらく歩いたところで、エアリスが口を開く。
「どうだった?」
その問いに、リアナはすぐには答えなかった。代わりに、隣を歩くカケルを見た。
カケルもまた、少し難しい顔をしている。
そして、先に口を開いたのはリアナだった。
「……やっぱり、おかしいわ」
その声は、もう迷っていなかった。
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