第74話 小舟を狙うクラーケン
岸近くの水は朝の光を受けて穏やかに見える。だが、その下には小舟をひっくり返すだけの力を持った何かが潜んでいた。しかも、岸に寄せた小舟ばかりを狙っている。
無理に近づけば危ない。けれど、このまま放っておくわけにもいかない。
「師匠、何か分かったの?」
リアナが小声で聞く。カケルは水面を見たまま頷いた。
「小さいけど、いる。クラーケンみたいだ」
「クラーケン!?」
さすがにその単語は聞き捨てならなかったのか、すぐそばにいた漁師がぎょっとした顔を向けた。
「お、おいおい、そんなもんがこんな近くにいるのかよ……!」
「ただ、成体じゃないです。小さいから幼体かな?」
カケルが言うと、男たちは顔を見合わせた。安心しかけて、けれど目の前の小舟を思い出したのか、すぐに複雑そうな顔へ戻る。
「小せぇって言っても、舟ひっくり返されちゃ意味ねぇだろ……」
「うん」
リアナも苦い顔で頷いた。
カケルはもう一度、水際に寄せられた舟と、その周囲の水面を見た。大きな船ではなく、小舟ばかりを狙っている。岸近くに寄る舟だけがやられるのも、その大きさなら不思議じゃなかった。
「こっちまでおびき寄せましょう」
リアナが横で目を瞬かせる。
「水の上に?」
「うん。水の中のままだと、こっちもやりにくいし」
カケルは水面に散っているベタたちへ意識を向けた。敵の位置はもうつかめている。なら、次は逃げ道を狭めて、苛立たせて、岸際へ押し出す。
漁師たちの方へ向き直る。
「少し離れていてもらえますか。舟の近くには寄らないでください」
「そ、そりゃいいが……兄ちゃん、何する気だ」
「出てきてもらいます」
「出てきてもらうって、そんな簡単に――」
言いかけた漁師の声は、カケルが家族たちを呼び出したところで止まった。
水辺に小さな影が次々と現れる。魚たちが静かに水際へ散り、足元の石陰からはヴァンパイアクラブたちが這い出してきた。
「うわ……」
「まだいたのか」
「召喚獣って、こんなに何匹も……?」
驚きの声が重なる。リアナはその横で、どこか得意そうに胸を張った。
「師匠の家族たちはすごいのよ」
カケルは小さく息を整えたあと、水面へ視線を向けた。
「【水中索敵】。それから……逃げ道を塞いで。岸から離さないで」
ベタたちがするりと水の中へ散る。金魚たちもあとを追うように水際へ入り、ゆるやかに弧を描きながら広がっていった。
水面は静かなままだった。だが、その下では動きが変わっていた。
ベタたちが位置を押さえ、金魚たち外へ逃がさないように巡る。水底近くに沈んでいた影が、落ち着きなく動きはじめたのが分かった。
『通知:対象は警戒状態へ移行。移動範囲を縮小しています』
カケルは目を細めた。
「もう少し」
「押せる?」
リアナが小さく聞く。
「たぶん。苛立たせれば出てくる」
「だったら、やるしかないわね」
カケルは頷き、水の中の家族たちへ意識を重ねた。
「【威圧】」
次の瞬間、水面の下で流れが変わった。目には見えない圧が、岸近くの一帯へ沈むように広がっていく。金魚たちが距離を保ちながら囲み、ベタたちがその内側を鋭く動く。逃げ道を塞がれた何かが、水底でじわじわと位置を変えていった。
ざわ、と水草が揺れる。その下から、暗い影がひとつ、ぬるりと動いた。
「おい……!」
漁師の誰かが息を呑む。水面近くまで押し上げられたそれは、短い脚を何本もひらく――小型のクラーケンだった。
想像していたよりは小さい。だが、小舟に取りついてひっくり返すには十分な大きさがある。しかも足先が細かく動き、水底の杭や舟の縁に絡みつきやすそうだった。
岸近くまで追われたクラーケンは、威圧に苛立ったように足をばたつかせ、水面を強く叩いた。ばしゃりと水が跳ね、小舟がまた揺れる。
「今よ!」
リアナが声を上げる。カケルは陸側で待たせていた茶渋を見た。
「茶渋!【爪撃】」
低く身を沈めていた茶渋が、一気に飛び出した。岸際へ寄った一瞬だった。クラーケンが身をひるがえして水の深い方へ戻ろうとしたところを、茶渋が真正面から叩き伏せる。短く重い一撃が入り、水際で黒い体が大きく跳ねた。
「入った!」
リアナが思わず身を乗り出す。だが、クラーケンの体はそのまま水へ落ちかけた。
「カニたち、お願い!」
カケルの声とほぼ同時に、ヴァンパイアクラブたちが動いた。
岸石の上を素早く走り、水際へ滑り込む。そのまま落ちかけた体に取りつき、横へ流れようとする勢いを押し止めた。完全に持ち上げることはできない。それでも二匹で力を合わせ、体を岸際へ寄せることに成功した。
「止まった……!」
漁師の一人が目を見張った。茶渋は間を置かず、岸へ寄せられたクラーケンへもう一度飛びかかった。
今度は決まった。びくりと大きく震えたあと、黒い体が力を失って沈んだ。だがヴァンパイアクラブたちがまだしがみついているおかげで、完全に流されはしなかった。
しばし水際が静まり返る。最初に息を吐いたのは、カケルだった。
「……終わった」
リアナもようやく肩の力を抜いた。
「やった……」
その声を聞いて、周囲の漁師たちも一気にざわめきだす。
「た、倒したのか?」
「本当にやっちまった……」
「おい、舟は? もう近づいて大丈夫か?」
カケルは水際に寄り、クラーケンの様子を確かめた。もう動かない。ベタたちも少し離れたところでゆるく泳ぎ、危険が消えたことを示している。
「大丈夫です。もう動きません」
その一言で、港の空気が少しだけ緩んだ。
だが、カケルにはまだやることがあった。
「茶渋」
声をかけると、茶渋が岸際の死骸へ近づく。ヴァンパイアクラブたちが体を押さえている間に、茶渋は慣れた動きで魔石を探った。ほどなくして、小さく光る核が取り出される。
「取れた」
リアナがほっとしたように言う。カケルはその魔石を受け取り、もう一匹の家族へ視線を向けた。
「ワサビ君」
肩先に現れたワサビ君が、静かに首を傾ける。
「精製、お願い」
ワサビ君は小さく口を開け、魔石へ意識を向けた。淡い光がその表面をなぞり、余分な濁りが少しずつ落ちていく。漁師たちは、さっきまでの緊迫を忘れたように、その様子を息を潜めて見つめていた。
「すげぇ……」
「召喚士って、あんなことまでできんのか……」
「魚だけじゃなくて、猫もカニもって、どうなってんだよ」
リアナはその声を聞いて、どこか誇らしそうに口元を上げた。
「だから言ったでしょ。師匠の家族たちはすごいのよ」
精製を終えると、ワサビ君は静かに身を引いた。カケルは手の中の魔石を見て、それからひっくり返った小舟の方へ目を向けた。
「もう舟、戻せます」
その言葉に、漁師たちは一斉に動き出した。数人が岸へ降り、ひっくり返った小舟を慎重に起こしていく。さっきまで手を出せなかった動きが、ようやく前へ進みはじめる。
「助かった……」
最初に話していた男が、深く息を吐いた。
「ほんとに助かった。あんたらがいなきゃ、今日も何もできねぇとこだった」
「いえ」
カケルは軽く首を振った。
「役に立ててよかったです」
「見つけるだけじゃなく、倒してるじゃねぇか」
別の男が笑うように言い、周りにもようやく安堵の空気が広がった。朝から止まった港の時間が、少しずつ動き出していく。
リアナはその様子を見て、満足そうに息を吐いた。
「よかったわね」
「うん」
カケルも頷いた。港町へ遊びに来たはずなのに、結局こうなった。けれど、小舟が戻り、漁師たちの顔から焦りが消えたのを見ると、悪くなかったと思えた。
その日のうちに、二人はマルシェルを発った。
港を出る時、漁師たちが何度も手を振っていた。リアナも大きく振り返し、カケルも少し照れくさくなりながら会釈を返す。帰りの道では、潮のにおいが少しずつ遠ざかっていった。
リスティアへ戻ったあと、カケルは買ってきた土産を持ってエアリスのところへ立ち寄った。小さな包みを受け取ったエアリスは、目を細める。
「ありがとう! うれしいよ」
包みを開き、港町らしい細工の入った小さな置物を見て、エアリスはやわらかく笑った。
「……でも、僕だけ仲間外れかい?」
「あ、いや……その、急だったもので」
カケルが慌てて答えると、エアリスは楽しそうに目を細めた。
「ふふ、冗談だよ。次はぜひ、一緒に行きたいな」
「はい。次は、最初からゆっくり出かけましょう」
カケルが頷くと、エアリスはうれしそうに笑った。その時、元気な声と一緒に、ほっぺが勢いよく飛び出してきた。
「ホッペチャン! オハヨウ!」
「わっ」
そのままエアリスの肩へ飛び乗ると、ほっぺは満足そうに胸を張った。エアリスが苦笑まじりにその頭を撫でる。
肩の上で落ち着いたほっぺと、穏やかに笑うエアリスを見て、カケルはようやく肩の力を抜いた。
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