第73話 翌朝の港の異変
翌朝、カケルたちは宿を出て、朝のマルシェルを歩いていた。
昨日より少し冷たい潮風が、通りの奥から吹き抜けてくる。朝の光を受けた海は明るく、港のあちこちではもう人が動きはじめていた。
荷を運ぶ声、縄を引く音、船べりを叩く水の音。昨日の賑わいとはまた違う、働くための忙しさが町の中に満ちている。
「朝の港って、やっぱりいいわね」
リアナが機嫌よく辺りを見回す。
「泊まって正解だったわ」
「うん。昨日とは全然違うね」
カケルも頷いた。昨夜は灯りと人の声が町を埋めていたが、今はそれよりも船と海の気配が近い。
そのまま二人で港の方へ歩いていくと、少し先に人だかりができているのが見えた。昨日の活気とは違う。声は多いのに、明るさがない。
「……何かあったのかしら」
リアナが足を止める。
カケルも目を細めた。怒鳴るような声と、困りきった声が入り混じっている。漁に出る前の慌ただしさというより、何かがうまくいかず足止めされているような空気だった。
二人が近づくと、水辺に寄せられた小舟が何艘かひっくり返ったままになっているのが見えた。
「またかよ……」
「これじゃ今日も出せねぇぞ」
「誰か戻せる奴いねぇのか」
漁師らしい男たちが、水際でおろおろと立ち尽くしている。手を出したいのに出せない苛立ちが、そのまま声に出ていた。
リアナが目を丸くする。
「小舟ばっかり……?」
カケルも頷いた。
確かにひっくり返っているのは、岸近くに繋いであった小さな舟ばかりだった。少し沖に停められている大きめの船には、とくに異常は見えない。
「すみません」
カケルが近くの男に声をかけると、相手は振り返って、見慣れない二人の姿に少しだけ眉をひそめた。
「何だ、あんたら」
「何があったんですか」
男は舌打ちまじりに水辺を顎でしゃくる。
「見りゃ分かるだろ。小舟がまたひっくり返されたんだよ」
「また?」
リアナが聞き返す。
「ああ、昨日も一艘やられた。今朝見たら今度はまとめてだ」
男は苛立ったように頭をかいた。
「戻したいのは山々なんだがよ、水ん中に何がいるか分からねぇ。下手に近づいて、今度はこっちが引きずられでもしたら洒落にならん」
「魔獣かもしれないってことですか」
「そうじゃねぇかって話だ。だが姿は見てねぇ。だから余計に気味が悪ぃ」
カケルは水際の小舟へ目を向けた。
確かに、力任せにひっくり返されたように見えた。波でそうなったにしては不自然だし、岸近くの小舟だけを狙ったようにも見える。
「大きい船は無事なんですね」
「ああ。やられてんのは小さいのばっかりだ」
別の男が口を挟んだ。
「だから余計に分からねぇんだよ。でけぇ魔獣ならもっと派手にやるだろうし、小せぇならこんな力あるのかって話だしな」
リアナが小さく息を呑む。
「漁にも出られないの?」
「このままじゃ無理だ」
最初の男が苦い顔で言う。
「港の仕事は待ってくれねぇのに、舟が出せなきゃ話にならん」
カケルはひっくり返った小舟と、その向こうの水面を見つめた。朝の光を受けてきらきらしているだけで、一見すると何もおかしなところはない。だが、その静かさがかえって不気味だった。
少し考えてから、カケルは口を開く。
「少し、見てみてもいいですか」
水辺を見ていた男が、すぐに顔を上げた。
「おい、兄ちゃん、やめとけ。あぶねえぞ」
「何がいるか分からねぇんだ。こっちは舟戻すのすら手ぇ出せねぇのによ」
その言葉に、リアナがすっと胸を張る。
「私達はね、召喚士なのよ!」
「なんだと! 召喚士サマかよ!」
男がぎょっと目を見開く。近くにいた漁師たちまで、いっせいにこちらを見た。
カケルは少しだけ苦笑してから、あらためて水際へ目を向けた。
「危ないことはしません。まずは様子を見るだけです」
「……頼む。危ねぇと思ったら、すぐ引いてくれ」
「はい」
カケルは小さく返して、水辺へしゃがみ込んだ。
岸近くの水は朝の光を受けて明るく見えたが、少し先はもう底が見えなかった。小舟の影が水面に揺れ、その下に何かが潜んでいてもおかしくない深さだった。
「師匠、出す?」
リアナが声を潜める。
「うん。まずは水の中を見てもらおう」
カケルはそっとベタたちを呼び出した。
水辺に小さな影が現れる。朝の光を受けて、その姿が水際にはっきり浮かんだ。
「そいつら……えれぇ綺麗な魚だな……」
驚いたような声が落ちる。
カケルは小さく頷き、水面へ視線を向けた。
「【水中索敵】」
ベタたちはするりと水の中へ散った。
最初は何も変わらなかった。
だが、しばらくして視界の端に淡い文字が浮かぶ。
『通知:敵性反応を確認。対象はクラーケン。脅威度はCランク。ただし該当個体は小型のため、Dランク相当と推定されます。確認数は一体。岸近くの水底に潜伏しています』
カケルは目を細めた。
「……いた」
「何かいるの?」
リアナがすぐに聞く。
「うん。たぶん、あの辺」
カケルが指した先の水面は、見た目には何の変化もない。だが、その下でベタたちの動きだけが明らかに変わっていた。
一匹が近づく。すると水の奥で、何かがさっと逃げるように動いた。
その瞬間、岸近くに寄せてあった小舟のひとつが、わずかにぐらりと揺れた。漁師たちの間に緊張が走る。
「お、おい……今の見たか」
「やっぱり何かいやがる!」
カケルは水際から目を離さなかった。
大きくはない。だが、小舟をひっくり返すには十分だった。しかも岸近く、小さな舟ばかりを狙っている。
「大きいのじゃなさそうだね」
リアナが小さく言う。
「うん。でも、小舟を狙うにはちょうどいいくらいなのかもしれない」
カケルは水面の向こうを見たまま、静かに息を吐いた。
(さて、どうするかな)




