第71話 捕縛
荷馬車は、水路脇のぬかるみを避けるようにゆっくりと止まった。
馬が低く鼻を鳴らす。御者台から降りてきた男は、周囲を一度見回してから、荷台の布をめくった。暗がりの中でも、その動きにはためらいがなかった。
荷台から下ろされたのは、いくつかの袋と、蓋つきの桶だった。男は慣れた手つきで袋と桶を運び、水路のそばへしゃがみ込んだ。カケルは息を殺したまま、その様子を見つめた。
袋の口が開く。どさり、と重たいものが落ちる音がした。続いて、桶が傾けられる。鈍く濁ったものが、水路の縁へ流れた。
その瞬間。
「動くな!」
ヴォルガンの声が夜気を裂いた。
同時に、暗がりに沈んでいた騎士たちが一斉に動く。街道側と運搬路側の両方から気配が立ち上がり、男を囲むように距離を詰めた。
男ははっと顔を上げ、桶を放り出して駆け出した。
「止まれ!」
エアリスの鋭い声が飛ぶ。だが男は止まらない。
ぬかるみに足を取られながらも、半ば転がるように走り、水路脇の低い草地を抜けようとする。
「右へ回れ!」
ヴォルガンの指示が飛ぶ。騎士の一人が進路を塞ぎ、男は舌打ちして向きを変えた。逃げ場を失った男の目が、ぎらついたまま辺りを走る。
その視線が、リアナで止まった。
まずい、とカケルが思った時には遅かった。男は腰のあたりから短い刃物を抜き、リアナの腕を乱暴に引いた。
「来るな!」
刃先が、リアナの首元へ突きつけられた。その場の動きが一瞬で止まった。
離れた場所で、シルバーが低く唸った。伏せた姿勢のまま、毛を逆立て、いつでも飛びかかれるように男を睨みつけている。
リアナが息を呑んだ。
男の肩は大きく上下していた。追い詰められた目のまま、刃を握った手に力がこもっている。
リアナの体が強張るのが、離れた位置からでも分かった。カケルの背に冷たいものが走る。
「離せ」
ヴォルガンの声は低かった。
「うるせぇ! 動くな!」
男は怒鳴り返し、刃先をわずかに押しつける。カケルは、できるだけ刺激しないよう声を抑えて言った。
「落ち着いてください。これ以上、罪を重ねないでください」
「黙れ!」
男は乱暴に叫んだ。その意識が前へ向いた、その時だった。
カケルは小さく呼ぶ。
「キョロ、チョロ」
暗がりの中を、キョロとチョロが音もなく走った。地面を這い、石を越え、草の陰から男の背後へ回り込んだ。次の瞬間、白い糸が走った。
刃物を握る男の手首へ、細く強い糸が一気に絡みつく。
「なっ――」
男の目が見開かれた。もう一本、さらにもう一本と糸が走った。手首から肘、指先にかけて糸がぐるぐると巻きつき、刃を握った手ごと引き絞った。男の指が思わず緩み、短刀が地面へ落ちた。
その一瞬の隙を、シルバーは逃さなかった。低いうなりとともに飛び出した銀色の影が、真正面から男へ飛びかかる。
「うわっ!」
男はリアナを放し、そのまま背中からぬかるみに倒れ込んだ。シルバーは胸元へ前脚をかけ、鋭く唸りながら押さえつける。泥が跳ね、男の喉からひきつった声が漏れた。
「シルバー、だめ!」
リアナのほうが鋭く飛ぶ。
「殺しちゃだめ!」
シルバーの耳がぴくりと動いた。喉の奥のうなりは消えなかったが、食らいつこうとしていた動きが止まる。その間に騎士たちが一気に踏み込み、男の両腕を押さえた。
「確保!」
エアリスの声が重なる。糸で巻かれた腕ごと後ろへひねり上げられ、男は泥の上で呻いた。なおも暴れようとするが、もう逃げ場はなかった。
リアナは数歩よろめいたあと、どうにか自分の足で踏みとどまった。首元にうっすら赤い筋がついているのを見て、カケルの心臓が強く跳ねた。
「リアナさん、大丈夫?」
カケルが駆け寄ると、リアナは震えを抑えるように、小さく頷いた。
「……大丈夫。ちょっと、引っぱられただけ」
その声を聞いて、カケルはようやく息をついた。ヴォルガンは捕らえた男を見下ろし、低く吐き捨てる。
「これで言い逃れはできねぇな」
男のそばには、倒れた桶と破れた袋が散らばっていた。水路脇の泥には、見覚えのある白っぽい残りがべったりと張りついている。
エアリスが一歩進み、男をまっすぐ見た。
「話は騎士隊で聞く。水場と農地を荒らした件も含めてね」
男は何か言い返そうと口を開いたが、騎士に腕を引かれて言葉にならなかった。
男が連行されたあとも、その場の片づけはすぐには終わらなかった。
倒れた桶や破れた袋の残りを、騎士たちが慎重に回収していく。ヴォルガンは水路脇の泥を見下ろし、近くの騎士に短く指示を飛ばしていた。エアリスも周囲へ目を配りながら、回収したものの確認を進めている。
リアナは少し離れた場所で首元を押さえていたが、もう足元はしっかりしていた。カケルがそちらを見ると、リアナは気づいて小さく手を振った。
「ほんとに平気だから」
「でも、一応あとでちゃんと見てもらったほうがいいよ」
「それはそうね……」
さっきまでの強がりが少しだけ抜けた声に、カケルはようやく息をついた。ヴォルガンがこちらへ戻ってくる。
「ひとまず、今日のところは押さえた。あとは騎士隊で持ってく」
「水路は、このままですか」
カケルが聞くと、ヴォルガンは泥の縁へ目を向けた。
「目立つもんは回収する。だが、こびりついた分までは今すぐ全部ってわけにゃいかねぇな」
「周辺もしばらく見回るよ」
エアリスが続ける。
「同じものが他に残っていないかも確認する。水を使う場所が近いからね」
カケルは頷いたあと、水路へ目を落とした。暗がりの中でも、泥に混じった白っぽい残りはまだ見えていた。
これ以上流れ出させないだけでも、十分な成果だと分かっている。けれど、このままで終わるのは少し引っかかった。
「……少しだけ、やってみてもいいですか」
ヴォルガンが眉を動かす。
「何をだ」
カケルは水面を見たまま答えた。
「金魚たちに、水を見てもらおうかと思って」
一瞬、ヴォルガンが黙った。だがすぐに、横からリアナが顔を上げた。
「水質浄化、使うの?」
「うん。目立つものを取ったあとなら、少しは役に立つかもしれない」
エアリスが静かに水路を見渡した。
「危険はなさそうかい?」
「すぐそばで見てますので」
少し考えてから、エアリスは頷いた。
「なら、試してみよう」
カケルはそっと金魚たちを呼び出した。夜の水辺に、小さな影がひとつ、ふたつ、ゆるやかに浮かぶ。金魚たちは水路へ入ると、騒がず、水面近くを静かに巡りはじめた。
最初は何も変わらないように見えた。けれど、しばらくして水の動きが少しずつ変わりはじめた。
よどんでいた流れがゆるくほどけ、泥の際に溜まっていた濁りがわずかに散っていく。
リアナがしゃがみ込み、水面を覗いた。
「……さっきより、ましになってる」
「全部は無理でも、残った分を少しずつ整えられれば」
カケルがそう言うと、ヴォルガンは腕を組んだまま低く鼻を鳴らした。
「十分だ。こっちで取れるもんは取る。残りをお前が手伝うなら、それでいい」
エアリスも小さく頷く。
「家畜の様子も、しばらく見てもらおう。これ以上悪くならなければ、村の人たちも少し安心できるはずだ」
その夜は、回収できるものだけを先に取り除いて引き上げることになった。
────
数日後、カケルたちはあらためてギルドへ呼ばれた。いつもの机を挟んで座ると、ヴォルガンは報告書を机に置き、ふっと口の端を上げた。
「取り調べは済んだ。やっぱり、もぐりの精製師だった」
その声は低かったが、もう昨夜のような張りつめ方はなかった。
「ギルドを通さず、こっそり直接依頼を請けてたらしい。手数料を抜かれねぇ分、そのほうが儲かるからな。正規に処理すりゃ金も手間もかかる。そいつを丸ごとケチりやがった」
リアナが眉をひそめた。
「処理までケチって水路に捨ててたのね……」
「ああ。家畜や畑の異変も、あいつが流した不純物の影響でほぼ間違いねぇ」
カケルは小さく息を吐いた。ここまで追ってきた違和感が、ようやく一本に繋がった気がした。
ヴォルガンはにっと笑うと、カケルの肩を軽く叩いた。
「まったく、最後までやってくれるじゃねぇか。最初に違和感を拾ったのもお前たちだし、最後に水まで整えちまうんだからな。お前たちがいてくれて助かったぜ」
「いえ。僕たちも力になれてよかったです」
ヴォルガンは次にリアナの方を見た。
「お前も災難だったな。だが、あそこでシルバーを止めたのは見事だった。ま、これで一件落着だ」
ヴォルガンの言葉に、カケルはようやく胸のつかえが取れた気がした。エアリスも傍らで穏やかに頷いている。
「水路の周辺は、しばらく騎士隊でも見るよ。残っていた濁りも前より落ち着いてきた。カケルの家族たちが水を浄化してくれたのは、村の人たちにとっても大きかった」
「それなら、よかったです」
カケルが答えると、リアナも嬉しそうに笑った。
ギルドを出た帰り道、カケルは空を見上げた。まだ全部が元通りになったわけではない。けれど、もう悪化はしない。その確かさがあるだけで、足取りは前よりずっと軽かった。
隣を歩くリアナが、ふっと息を吐く。
「長かったわね」
「うん」
カケルも頷いた。風は少し冷たかったが、足取りは軽かった。
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