第57話 辺境伯の評価
アルシュタイン辺境伯邸の客室は、カケルの想像を遥かに超えていた。数日が経っても、カケルは肩の力を抜けずにいた。
朝、音もなく開いた扉から数人のメイドが滑り込み、カケルの意向を待たずに「最適」を整えていく。湯を運び、火を世話して、カケルが下げた頭には微かな衣擦れだけが返った。畳もうとした衣服は先回りして回収され、代わりに清潔な着替えが差し出される。
礼を言うたび、自分の声だけが場違いに浮いていく気がして、背もたれに預けかけた体を起こした。こちらの手を差し込む余地が一切ない空間だった。
「師匠、入るよ。顔色は良くなったね」
リアナは日に何度も足を運び、カケルの様子を確認した。カケルは贅を尽くした皿を音もなく下げるメイドの背中を見送り、小さく息を吐いた。
「ありがとう、リアナさん。ありがたいんだけど、落ち着かないんだ」
「父様が許可したことだよ。大切に扱うのが客人に対する礼儀。だから、そんなに困らないで」
リアナが笑うと、カケルも苦笑して頷いた。少し体を起こした拍子に、討伐直後に視界を流れた文字列がふと脳裏をよぎる。
新たに解放された召喚枠は「魚類・水生生物」。
本当なら、今すぐにでもどんな子が来てくれるのか確かめたかった。けれど、水の中で生きる家族なら、迎える前にきちんと環境を整えたい。仮の器や間に合わせの水場で呼ぶようなことはしたくなくて、その思いが逸る気持ちにそっと蓋をしていた。
「……どうしたの、師匠?」
「ううん。ちょっと、次のことを考えてたんだ。でも、慌てないで準備したいなって」
カケルがそう言うと、リアナは事情を深くは問わず、ただ不思議そうに首を傾げた。
――――――
アースマンモスとの接触から四日目の午後。カケルはアルシュタイン辺境伯の執務室へと呼び出された。室内には辺境伯とリアナ、そして長男のヴィクトールが同席していた。
「父上。この平民を厚遇するなど、アルシュタインの品位に関わります」
ヴィクトールはカケルへ冷ややかな視線を浴びせた。
「あの場の連携は認めてやる。……悪くない。だが単体なら、私のサンダーウルフが上だ。貴様の愛玩動物に、並ぶものはない」
辺境伯はカケルから目を離さず、言葉だけを落とした。
「崩し方は悪くない。多数を回した手際も見事だ」
辺境伯が一度口を閉じると、部屋の空気が一段重くなる。
「だが、押し切れなかった。あれ以上は、力でねじ伏せるしかない場面が来る。それもまた事実だ」
カケルは言葉を返さず、その評価を受け止めた。辺境伯の視線は次に、息子へと向けられた。
「ヴィクトール。禁域の封印を破ったのはお前だ。越えた代償は、領が受ける」
ヴィクトールの反論の気配を、辺境伯が言葉で押し潰した。
「判断が甘い。己の証明のために、自分で制御できぬものに手を出し、結果として土地と民を危険に晒した」
声は平坦だったが、室内の空気だけが冷えていく。
「余波はまだ収まっていない。街道沿いの見回りを完遂しろ。お前の判断が招いた不始末だ」
ヴィクトールは唇を噛目、喉の奥を鳴らしたが、父の視線に押されるように頭を下げた。
「ヴィクトール、下がれ」
一礼してその場を退く息子を見送り、執務室の空気がわずかに変わると、辺境伯はリアナへ向き直った。
「リアナ、お前は屋敷へ帰ってこい」
「父様……私は……師匠の家に戻りたい。まだ学びたいことがあるの」
リアナは言い訳をせず、ただ父を見据えた。
「終わらせる強さと、支える強さ。その両方を知らなければ、私はシルバーの主として、足りないままになってしまうわ」
一拍の沈黙の後、辺境伯は一度だけ重く頷くと、視線だけで外を示した。控えが扉を開け、リアナは一礼して部屋を後にした。
部屋に残されたのは、辺境伯とカケルだけになった。
「お前のやり方は認める。リアナにも成長が見えた」
辺境伯は一度だけ息を置き、言葉を続けた。
「娘を、お前の家に置くことを許可する」
「……よろしいのですか、辺境伯様」
「シルバーは、あの場で見事に牙を剥いた。お前の教えが、恐怖を上回ったのだろう」
辺境伯は手短に条件を並べた。
「リアナの行動はお前が見ろ。危険判断は任せる。護りを切らすな。……月に一度、状況を報告しろ」
そう言い切ると、それ以上は口にせず、書類へ視線を戻した。
条件はどれも、リアナの安全に寄っていた。カケルは何かを言いかけて、それを飲み込んだ。
辺境伯はもはや言葉を重ねず、ただ退出を促すように視線を外した。カケルは丁寧に頭を下げ、部屋を辞した。
廊下に出た瞬間、溜めていた息を深く吐き出す。あの厳格な男の底にある不器用なものを、カケルは確信に近い感覚で捉えていた。
三日後。街道の足跡は統制を失って乱れていた。森が静かすぎて、逆に耳が痛い。見回り任務中のヴィクトールは、二頭のサンダーウルフと共に森の境界に立っていた。
茂みが大きく揺れ、三体のフォレストボアが興奮状態で突っ込んできた。本来なら格上の気配を前に止まるはずだが、彼らは恐怖を塗り潰したような異常な昂ぶりを見せている。
「サンダーウルフ。処理しろ」
二頭が左右へ分かれ、ボアの頸を沈めるように噛み伏せた。戦闘は十数秒で終わった。二頭は獲物から牙を抜き、音もなく主の半歩後ろで静止した。なおも遠くの茂みがざわめき、次が来る気配が消えない。
ヴィクトールは一度だけ手を伸ばし、傍らに立つ一頭の耳の付け根を確かめるように撫でて、すぐに手を離した。
「悪くない動きだ。……次に備えろ。遅れるな」
指摘を受けた二頭は短く喉を鳴らして応えると、再び前方の警戒へと意識を戻した。ヴィクトールは召喚を維持したまま、乱れた街道の先を睨み据えた。
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