第56話 静かな一撃
土煙の向こうで石畳がもう一度きしみ、起き上がろうとする巨体の重みが遅れて広場に帰ってくる。リアナはシルバーの銀毛に指を食い込ませて、パニックを脱した群衆の最後尾が門を抜けるのを見届けながら、ただ一点、カケルの背中だけを凝視していた。
「師匠、もういい、こっちへ戻って」
リアナが声を張り上げても、カケルは一歩も引かずに踏みとどまっていた。彼の肩にいるワサビが周囲を警戒し、上空ではピー太郎たちが最後の一羽が門を抜けるまで、執拗に視界を横切り続けてアースマンモスの注意を奪い続けている。
だが、十トンを超える筋肉が強引に起き上がろうとする圧力は、キョロとチョロの糸が足裏に食い込む程度の引っかかりだけでは、もう一拍も稼げない限界を超えつつあった。
「ピー太郎、戻って。……キョロ、チョロ、そこはもう持たない。離れて」
掠れた声で告げられた指示は短かったが、その端々には隠しようのない消耗が滲んでいた。
アースマンモスの前足が瓦礫を踏み砕き、再び踏み込みの力が真っ直ぐ戻ると、じったんの背中が軋み、逃げ道の骨となっていた石畳が音を立てて陥没していく。カケルには武器もなく、構えすらなく、ただ崩れゆく支点を繋ぎ止めるために名前を呼び続けているが、その姿はあまりに危うかった。
「何をもたついている、平民。恐怖で指一本動かせぬか。……ならば私が示す。サンダーウルフ!」
サンダーウルフが飛び出した。だが輪郭が安定しない。召喚が浅い影は形を保てず、アースマンモスの鼻が一振りされると、そのまま霧散して解けてしまう。
自己を証明するために虚勢を張る兄の強さが、今のこの圧倒的な質量の前では、風に舞う塵と大差なかった。
「兄様、もうやめて」
リアナの呟きは、再び起きた激しい地響きに掻き消された。
アースマンモスが完全に重心を戻して立ち上がろうとしている。カケルが作った道筋は維持されているが、アースマンモスの前足が、カケルのいる地点へ降りてきた、その時だった。
カケルの背後から、ただ一歩だけ、誰かが前に出た。リアナの父、アルシュタイン辺境伯だ。
重厚な外套を翻し、周囲の喧騒を一切無視したその足音が、石畳の沈みとなって広場に伝わる。リアナの喉が、無意識に固くなった。
「アイアンレックス」
鳴き声もなく辺境伯の隣に収まっただけで、周囲の温度が一段落ちる。
音もなく、熱もなく。鉄よりも硬質な皮膚が鈍い光を反射するその姿は、生き物というより研ぎ澄まされた武器だった。
辺境伯は視線を動かさず、わずかに顎を引いた。それが合図だった。
アイアンレックスの一歩は、踏み込みというより位置が変わったというべき速さだった。振り上がった鼻が落ちるより早く、一度だけ触れて軌道をずらす。
激撃の衝撃は地面を砕く音に変わり、アースマンモスの殺意だけが空振る。次の瞬間には、アイアンレックスはもうアースマンモスの懐へと滑り込んでいた。
そして巨大な顎が、アースマンモスの頸の付け根、皮膚が最も薄い一点へと正確に届けられた。
首の一点が噛まれた、その直後だった。
振り上げた鼻が途中で止まり、巨体が膝から前へ崩れる。石畳が沈んで粉塵が爆ぜてもその先はなく、広場の叫びが一拍遅れて息を呑む音に変わった。
アースマンモスの巨体が一度だけ大きく痙攣し、そのまま――もう動かなかった。
『対象:アースマンモス(Aランク)の討伐を確認。』
『召喚獣:茶渋のレベルが33に上昇しました』
『召喚獣:ワサビのレベルが32に上昇しました』
『召喚獣:ほっぺのレベルが28に上昇しました』
『召喚獣:キンカチョウのレベルが28に上昇しました』
『召喚獣:ジャンピングスパイダーのレベルが23に上昇しました』
『召喚獣:フトアゴヒゲトカゲのレベルが18に上昇しました』
『召喚獣:じったんのレベルが16に上昇しました』
『オーナー:カケル・モリシタの召喚士レベルが13に上昇しました』
『新たな召喚枠「魚類・水生生物」が解放されます』
視界の端を流れた文字列に、カケルの喉がかすかに上下した。新しい家族に繋がる報せは、たしかに胸の奥を震わせたが、今はそれに意識を向けている余裕はない。
アイアンレックスは顎を離し、何事もなかった様子で辺境伯の隣へ戻る。余計な動きはひとつもなく、ただ頸椎の一点だけを断って、巨体を止めた。
遅れて、頸の付け根から血がじわりとにじみ、裂け目が広がる。裂け目の奥で硬いものが鈍く光り、深い緑を湛えた巨大な魔石が覗いた。
辺境伯はアイアンレックスを送還し、倒れた巨体には目もくれずにカケルを見据えた。
「崩し方は悪くない」
それだけ言って、辺境伯はもう次を見ていた。リアナだけが、その言葉の重さに遅れて息をした。
カケルは膝をつきそうになるのを辛うじて堪えながら、肩を上下させて激しい呼吸を整えていた。ようやく深く息を吐き出すと、ワサビが彼の肩で緊張を解き、足元に漂っていた気配が、カケルの影の中へと還っていく。
カケルは辺境伯に対し、短く頭を下げた。
「……助かりました、辺境伯閣下。これ以上は、うちの子たちの限界でした」
「師匠!!」
リアナがシルバーと共に駆け寄り、カケルの腕を支えた。逃げ遅れた者もなく、広場には静寂だけが戻っている。
辺境伯は頷きもせず、ただ深緑魔石を一瞥しただけで、その場を後にした。
ヴィクトールは、足元で輪郭を揺らしながら立ち尽すサンダーウルフを押さえたまま、ただ父の背中を見送ることしかできなかった。彼が追い求めていた強さが、父が見せた完遂の前では、あまりに幼く見えた。
リアナは兄を見なかった。粉塵が消えていく広場の静けさの中で、視線は、土煙の向こうで立っていた師匠の背に戻った。
無武装で場を支え切った師匠を目指し、いつか自分も並びたいと、それだけを静かに思った。
「師匠、行こう。……辺境伯邸へ。……みんな、頑張ってくれたから」
「そうだね、リアナさん。シルバーも、ありがとう」
カケルは穏やかに微笑んで頷いた。その背中はまだ真っ直ぐなのに、指先だけがわずかに震えているのが見えた。
アースマンモスの巨体が作る影の下で、耳鳴りだけが、静かに消えていった。
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