第53話 崩れる均衡
音は、すでに「音」の範疇を超えていた。
ズシン、という衝撃が腐葉土を突き抜け、カケルの足裏から背骨を震わせる。数百メートル先、境界線の向こう側で、巨木が折り重なって倒れる断末魔が絶え間なく続いていた。
「師匠、くるわ」
リアナがシルバーの首筋を抱きしめるようにして、低く身構えた。シルバーの毛が逆立ち、喉の奥から深い警戒の唸りが漏れる。
カケルは右手を家族たちに示し、静止を命じた。
「ほっぺは俺のそばに。ピー太郎、上空から。絶対に近づかないで。距離を保って索敵を継続」
カケルの脳内に、ナビゲーターの無機質な声が割り込む。
『対象:アースマンモスを捕捉しました。前方三百メートル、個体数は1、ランクはAです』
――ランクA。
その一文字が持つ絶対的な拒絶感に、カケルの思考が凍りつく。
地域一帯の生態系を単体で塗り替え、地図上の空白地帯を作りかねない、歩く厄災。心臓が警鐘を鳴らすように激しく脈打ち、喉の奥がかつてないほど強く乾いた。
視界の先、樹冠を突き破り、黒い山のような質量がゆっくりと、だが確かな意思を持って動いているのが肉眼でも確認できた。
その後方。二つの雷光――ヴィクトールのサンダーウルフが、泥を跳ね上げながらその「山」に食らいついていた。
ヴィクトールは、ただ逃げているわけではなかった。
「……右!膝の裏を噛み砕け」
サンダーウルフの一頭が、倒木を足場に弾丸のごとく跳躍した。巨躯の主が次の一歩を踏み開く瞬間、その関節の隙間へと牙を突き立てる。
もう一頭が反対側から回り込み、注意を引くように長い鼻先へ肉薄した。
その一撃は、確かに「山」を揺らした。巨大な足が僅かに進路を逸らし、地鳴りの波長が変わる。
カケルの目には、それがアルシュタインという家門が積み上げてきた「個の武」の、一つの完成形に見えた。
だが。
ドォォォォン、と山が、苛立ちを込めて足を踏み下ろした。
直撃ではない。狼たちの牙も、ヴィクトールの身体も、その足には直接触れてはいない。
しかし、踏み下ろされた地点から、大地の表面が波打つように爆発した。
腐葉土が噴水のように跳ね上がり、太い根が地面から引きずり出されて鞭のようにしなる。連鎖的に周囲の巨木が跳ね、視界が土煙で塗り潰された。
「……は?」
ヴィクトールの口から、短く乾いた音が漏れた。
土煙の向こう側。左翼を担っていたサンダーウルフの輪郭が、陽炎のようにぶれている。
体表から吹き出す青白い粒子が止まらない。呼吸音が抜けるように細くなり、次の衝撃で消える。そう悟らせるほど、輪郭が薄い。
カケルの視界には、狼たちが足場にしていた「地面」という前提そのものが消失したように映った。沈み込んだ足場に足を取られ、体勢を崩したところへ、薙ぎ払われた鼻の風圧が叩きつけられた。
ただの空気の塊が、物理的な槌となって狼の魔力を削り取っていく。
「ちっ……主導権を渡す趣味はないんだがな。父上の前で醜態を晒すわけにもいかない」
ヴィクトールの笑みが、冷徹な色に変色した。
「道を変える。騒がしい方へ行くぞ……ついて来い」
ヴィクトールはサンダーウルフの首筋を蹴り、反転させた。それは、獲物を諦めた敗走ではない。
自分を「追われる側」という屈辱的な立場に固定した相手への、冷徹な切り離しだった。
理解した瞬間、胃の底が冷えた。会場へ誘導する気か。ヴィクトールの逃走経路は、そのまま第二層のメインエリア、そしてカケルたちが守るべき境界線へと直結している。
より大きな音と、より強い匂いがある場所へ。そこに獲物を「付け替える」ことで、自分への追跡を断つ。
あの男なら、それを最善の合理だと断じるだろう。
雷光が、こちらへ一気に迫った。さっきまで土煙の向こうにいたはずの速度が、距離の感覚を壊してくる。
その背後には、もはや隠しようもないほど巨大な、動く森そのものが迫っている。
「退け! ……退屈な雑音は消えろ」
ヴィクトールの怒号が響く。彼はカケルたちの横を通り抜ける瞬間、一瞬だけリアナと視線を合わせた。
そこにあったのは、妹を案じる情などではない。自分の「証明」の邪魔をする障害物への、底冷えするような苛立ちだけだった。
ヴィクトールが境界線を突破し、第二層の内側へと消えていく。その直後、凄まじい風圧がカケルたちを襲った。
鳥たちが絶叫し、森が悲鳴を上げる。巨木の隙間から、岩石のような皮膚の一部が、壁のように迫り来るのが見えた。
カケルは、足元で震えるイガとグリの頭を力強く撫でた。
「みんな、送還準備。ワサビ、茶渋、リアナを守って」
「師匠!? 何をするつもり?」
カケルは答えなかった。地鳴りは、もう目の前にある。
境界の鎖が、キィィンと耳障りな音を立てて引き千切られた。
カケルの目の前で、地面が大きく沈み込む。腐葉土が重い音を立ててひしゃげ、湿った土の匂いが立ち昇る。
カケルは、迫り来る巨大な影を真っ向から見据えた。
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