第36話 茫然自失
フォレスト・バジリスクの巨躯が地に沈み、森に静寂が戻る。
茶渋は毛についた湿り気を払うように前足で顔を洗い、カケルの元へ歩み寄って「にゃうん」と甘えた声を上げた。
「お疲れ様、茶渋。助かったよ」
カケルが屈み込んで茶渋の喉元を撫でると、彼女は喉を鳴らして目を細める。ワサビ君も巨大化を解いて元のサイズに戻り、カケルの肩へと器用に登り直した。
キンカチョウたちは空から舞い降り、カケルの周囲を賑やかに飛び回っている。
そこにあるのは、死闘を演じた直後の戦士の姿ではなく、いつもの穏やかな「家族」の風景だった。
「……信じられない」
その光景を、リアナは呆然と見つめていた。彼女の視線の先には、未だに立ち上がれず、地面に伏したまま震え続けているシルバーがいる。
「シルバー、何をしているの……? 敵はもういないわ。立って。立ちなさい……!」
リアナが焦燥を滲ませて命じるが、シルバーは全身を震わせ、耳は力なく伏せられたままだ。
「立ちなさいって言ってるでしょ! あんたは誇り高きシルバーウルフなのよ! あんな猫や奇妙なトカゲにできるのに、どうしてあんたはできないの!?」
リアナの声が悲鳴のように響く。彼女にとってシルバーは「無敵のスキル」であり、敗北も、ましてや恐怖で動けなくなる姿も、あってはならないことだった。
「……リアナさん、もうやめてあげて」
見かねたカケルが、静かに声をかけた。
「なによ……! あんたに何が分かるっていうの!?」
「あの子は、今すごく怯えてるんだ。シルバーだって、怖いものは怖いんだよ。道具じゃないんだから」
「道具じゃない……? 召喚獣は、戦うための力でしょう!? 期待に応えられないなら、それは……」
「違うよ」
カケルはリアナの言葉を遮り、震えるシルバーの側へ歩み寄った。シルバーが怯えたように身を縮めるが、カケルは無理に触れようとはせず、その視線に優しさを込める。
「この子たちは、俺たちのために戦ってくれる。でも、それは義務じゃない。俺がこの子たちを家族だと思っているから、ちゃんと応えてくれる」
カケルはいまだに震えるシルバーを見やった。
「シルバー、今は怖かったんだ。……大丈夫だよって、背中に手を置いてやって。叱るより、そっちが先だ」
「シルバーが、怖がってる……?」
リアナは目を見開いた。
リアナの頭にあったのは、勝たせることだけだった。シルバーの息づかいを見て、初めて、勝利の陰に押し込めていた感情の存在に気づく。
カケルに促され、リアナは恐る恐るシルバーの背に手を触れた。リアナの手のひらに伝わる小刻みな震えが、言葉より先に胸を締めつけた。
「……シルバー」
リアナがそっと、壊れ物に触れるようにその身体を抱きしめた。
すると、シルバーの震えは徐々におさまっていった。狼は小さくか細い鳴き声を上げ、リアナの肩に大きな頭を預けてくる。
それは、シルバーが初めて見せた「弱さ」であり、リアナが初めて触れた、彼の「心」だった。リアナの目から涙が溢れ、シルバーの銀毛を濡らす。
「ごめん……ごめんなさい、シルバー……。あなたが、こんなに震えていたなんて……」
召喚獣を「強力なスキル」としてしか見ていなかった自分の浅はかさが、シルバーをどれほど追い詰めていたか。カケルたちの戦いを見て、そこでシルバーの温もりに触れて、彼女は初めてその真実に気づいた。
帰路の途中。
リアナは一言も発さず、シルバーに寄り添って歩いた。シルバーはまだ少し足取りが重かったが、その瞳にはリアナへの信頼が宿っていた。
カケルの後ろを歩く家族たちの賑やかな気配を背中に感じながら、リアナは何度もシルバーの頭を撫でる。不遜だった彼女の肩から力が抜け、その表情には静かな衝撃を刻んでいた。
「……カケル」
街の門が見えてきた頃、リアナが足を止め、何かに憑かれたように、ぽつりと呟いた。
「なに?」
カケルが問い返したが、リアナは彼の方を見ようともせず、ただ自分の手のひらを見つめている。シルバーを抱きしめた時に感じた、あの激しい震えがまだ掌に残っているかのようだった。
「……私は、今まで、何を、させていたのかしら……」
その掠れた声に、いつもの高慢な響きは微塵もなかった。彼女を支えていた「召喚獣はスキルである」という絶対的な信念が、目の前で崩れ去った衝撃。
リアナはただ呆然と、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
「リアナさん、大丈夫?」
カケルが気遣うように声をかけたが、リアナは力なく首を振るだけだった。シルバーの首筋を確かめるように何度も撫で続け、まるで自分自身の心を繋ぎ止めようとしているかのようだった。
「……今は、何も考えられないわ。……ごめんなさい」
蚊の鳴くような声でそう漏らすと、リアナはふらりと、迷い子のような足取りで門へ続く通りの人波に紛れていった。
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