波及 最終話
背中を打った痛みが引いたのは、片桐が去ってから随分と時間が経ってからだった。
真白はゆっくりと体を起こしながら、圧倒的な力の差を前に笑う。
(何が違うっていうのよ)
片桐は自分と真白の差を「場数」の一言で片付けた。
だが、それは言葉通りの意味ではないはずだ。
ただ数をこなせばいいというものではなく、必要なのは質の違う「場数」だ。
だがそんなもの、どうやって踏めばいいというのか。
そう考えたとき、ふと、昔聞いた噂話が脳裏をよぎった。
(違う、そんなことは今考えることじゃない)
直後、真白は強く首を横に振る。
まずは明らかに「置いていかれた」この状況を、どうにかしなければならないのだ。
ずいぶん時間が経ってしまったと自覚した瞬間、舌打ちしたくなるような焦燥感が込み上げてきた。
どうせ片桐の向かう先は蟻塚だ。
ならば少しでも早く向かって追いつかなければならない。
焦りと執着を噛み殺し、真白は急いで蟻塚の地下へと取って返した。
だが、アビスへと続く地下階段の入り口に辿り着いた彼女を待っていたのは、国際連合主導の『東京アビス対策機構(T.A.M.O.)』の兵士による封鎖線だった。
置かれているのは簡易的なバリケードだけだ。
しかし、その奥には完全武装した外国人の兵士が一人、けだるげにガムを噛みながら立っていた。
兵士は真白の姿を認めると、言葉を発する代わりに、抱えていたアサルトライフルの銃身を軽く持ち上げた。
それだけで十分だった。
それは単なる脅しではない。
一歩でも踏み込めば躊躇なく引き金を引くという、明確な意思表示なのだ。
(嘘でしょ、なんでこんなところで)
意味が、分からない。
こんな場所に、やらされていると言わんばかりの兵士一人を立たせることで、何ができるというのか。
(くそっ、もしかしてこれもおじさんが?)
真白は他の侵入経路など知らない。
下手に別の入り口を探して迷っている間に、片桐が仕事を終わらせて帰還してしまえば、役に立たないどころの話ではない。
かといって強行突破したところで、容赦なく銃弾を浴びせられるだけだろう。
真白は軽く舌打ちをすると、踵を返してその場を離れた。
少しして戻ってきた真白の手には、紙カップに入ったコーヒーが握られていた。
兵士の視界の端でコーヒーを軽く掲げ、わざとおどけた表情を作って見せると、彼女は平然と近くにあったコンクリートの残骸に腰掛けた。
腹のたつことだが、結局、片桐が戻ってくるのをここで待つことしか、真白にはできなかった。
ただ待つことしかできない自身の無力さを、苦いコーヒーと一緒に飲み込む。
ならば今、考えなければならないことはこれからどう動くか、だ。
これまで自分なりに身体を鍛え、実戦を想定した訓練も積んできた自負があった。
だが、そのどれもが片桐に対しては無意味だった。
圧倒的な、実戦経験の差。
この差を埋めない限り、自分はいつまで経っても蚊帳の外に置かれたままだ。
(じゃあ、どうすれば追いつけるの)
片桐に手合わせを頼んでも、どうせ真面目に相手などしてくれないだろう。
同居人の有坂も、異能力こそ持ってはいるが、実戦経験のなさは真白と変わらず、相手としては完全に力不足だ。
命のやり取りに近い、実戦形式で経験を積む手段がほしい。
(……あそこなら)
ふと、真白の脳裏に先ほど思考の途中で打ち消した場所が再びよぎる。
ゲートタウンのどこかで毎夜行われているという、賭け闘技場。
明確な場所を知っているわけではない。
あくまで噂話の範疇を出ない曖昧な情報だ。
だが、そこを見つけ出し、飛び込むことができたのなら、明確に引かれたルールのある世界で、死とぎりぎりまで隣り合わせの戦いを繰り広げることができるだろう。
そここそが今、自分が求めるべき場所なのかもしれない。
そんな危うい思考を巡らせていたとき、薄暗い通路の奥、封鎖線の向こう側から見慣れたコートの男が現れた。
「ちょっと……おじさん……?」
文句の一つでも叩きつけてやろうかと腰を浮かせた真白は、その異様な姿に息を呑み、動きを止めた。
片桐はひどくよろめき、今にも倒れそうなほどに足元がおぼつかない。
完全武装のT.A.M.O.兵士は、そんな死人のようにボロボロの片桐の姿を認めると、銃を構えることもなく「面倒事はごめんだ」とばかりに軽く肩をすくめ、彼を素通りさせた。
兵士の呆れたような態度を横目に駆け寄った真白は、片桐の異常な状態を間近で確認する。
どこか怪我でもしているのかとよく見ても、外傷は一切見当たらない。
服はあちこち破れているものの、血を流しているわけでもない。
それなのに、呼吸は浅く乱れ、焦点の合っていない瞳はまるで死人のようだった。
無傷のまま、ただひたすらに生気を失っている。
「……なにがあったの?」
問いに答えない片桐の腕を、真白は慌てて取り、その異常に重い身体を支えた。
片桐の体重が容赦なく真白の肩にのしかかる。
「すまないが、このまま『REPAIR』まで連れて行ってもらえるか」
腐臭と塩素の入り混じったような嫌な臭いが、彼のコートから立ち昇っていた。
蟻塚を出て、淀んだ空気の立ち込めるゲートタウンの表通りへと抜け、ガレージまでの長く陰鬱な道を歩く。
すれ違う住民やスクレイパーたちが好奇心から目を向けてくるが、気にする余裕もなかった。
片桐の息はゼイゼイと荒く、足元はずるずるとコンクリートの破片や瓦礫を擦っている。
時折、ポケットのタブレットケースから錠剤を出しては、噛み砕いたりもしていた。
足に力の入らない男を引きずるようにして進む帰路は、真白にとって過酷な労役だった。
事務所のソファに倒れ込むなり、片桐は震える手で再び『錠剤(飴)』を取り出し、むさぼるように噛み砕くと、荒い息を吐き出しながら傍らのボトルを掴み、琥珀色のウィスキーをストレートで直接喉の奥へと流し込んだ。
「片桐さん?」
奥から顔を出した有坂が、その惨状に目を見開いた。
「遠野さん、何があったんですか!?」
「知らないわよ。仕事から戻ってきたらこんな状態だったの」
「仕事って……」
「あたしも詳しくは知らないわ」
真白にとって、それ以上の説明はただ面倒なだけだった。
身を削るような片桐の異常な姿に、有坂と真白はただ顔を見合わせるしかなかった。
これまで有坂は、片桐がこんなにも無防備で、ボロボロな状態になっているのを見たことがない。
外傷一つない状態にもかかわらず、薬と酒にすがりついている。
見えない何かに内側から食い破られているかのようなその惨状は、有坂にとって底知れぬ恐怖だった。
「片桐さん……一体、何があったんですか。それ、あの時の……」
有坂の戸惑いと緊張を含んだ問いに、片桐は濁った瞳のまま短く吐き捨てた。
「少し、無茶をした。すまないが……しばらく俺は、動くことができない」
理由は語られない。
完全に謎のまま、ただ圧倒的な消耗感だけがそこにあった。
片桐が深い眠りについてから、しばらく後のこと。
不意に事務所の扉が叩かれ、一人の男が姿を見せた。
蟻塚からの使いの男だった。
男の顔を見た瞬間、有坂は僅かに目を見開いた。
ゲートタウンへ堕ちる前からの、旧知の顔だったからだ。
だが男は私情を挟むことなく、一通の茶封筒を無言でテーブルに置いた。
「……これは?」
有坂の問いかけに、男は淡々とした声で口を開く。
「結城さんからの預かり物です。中身は私も存じませんが、『見れば分かる』、と」
男はソファで死んだように眠る片桐を一瞥し、軽く頭を下げるだけで部屋から出ていった。
残された封筒を前に、中身を見るべきかと有坂と真白は顔を見合わせる。
「……開けましょう。片桐さんはしばらく動けないと言いました」
それがなぜなのかは分からないが、本心であることは間違いない。
それならば、と二人は封筒の封を切った。
残された中身は、数枚の資料。
「……これは」
そこに記されていたのは、東京にアビスが出現した際の第1世代の魔物、起源の一体『蛭子』のデータだった。
様々な身体のパーツを粘液の内に取り込んだ、巨大な不定形の泥のような魔物。
本来は深層にいるはずのその魔物が、なぜか表層の『等活』まで上がり、スクレイパーたちを次々と呑み込んで際限なく肥大化しているという事実。
スクレイパーたちが表層を不自然に警戒し、ゲートタウンから出ようとしなかった理由の、最も最悪な答えがそこには書かれていた。
「あんたはこれ、知ってたの?」
「全部ではないですけど」そう言って有坂は次の頁をめくる。
資料の最後には、結城の書いた一文が事務的に添えられていた。
『今回の件、お疲れ様でした。この情報は報酬の代わりだと思ってください。等活から獲物が消えた後、あれが次にどこへ向かうかは我々のシステムで把握しています。蛭子はすでに、ゲートタウンのすぐそこまで達しています。どうぞ、命を守る行動を取ってください』
それは、眠りについた何でも屋の耳にはまだ届かない、街全体を飲み込む破滅の足音だった。




