第1話
アルコールと『飴』によって、片桐の意識は底へ底へと沈んでいく。
そんな中で、数時間前の記憶が、夢のように思い返された。
――重ガスが沈殿した後の、無音と化した亀裂の奥底。
見た瞬間、狙い通りの結果になったことが分かった。
溶解した組立者と、そこかしこに散乱する労働者の残骸。
一通りライトで照らし、動くものがないことを確認して亀裂の中へ踏み入る。
残骸を足で小突きながら見回っていくと、やはり『弥生の理』のシンボルを刺繍した服を身に着けている個体も混ざっていた。
(やれやれ、だ)
さすがにこれで、教団の残党に関わる厄介事とはおさらばしたい。
もう一度周辺をくまなく照らし、天井から隅まで一通り確認する。
空間は、無音そのものだった。
(……問題ないな)
仮に前もって亀裂から逃げ出していた個体がいたとしても、管理母体である組立者がいない以上、これ以上増殖することはない。
あれは自然発生した魔物ではなく、組立者によって作られた魔物(紛い物)だからだ。
(後は結城に言って、亀裂を埋めてもらえば済む話だ)
片桐は来た道を引き返した。
閉鎖空間となっていた旧駅構内から、再び亀裂の中へと足を踏み入れる。
(むしろ問題なのはこれからだな)
片桐は面倒そうに頭を掻いた。
結城が依頼通りにバリケードと見張りを用意していたとすれば、真白がそれに対して不機嫌を通り越した怒りを抱くことは容易に想像ができる。
(あまり五月蝿いようなら、また何か腹一杯食べさせるとするか)
食事中の真白の笑顔は、やはり、父親である『斑さん』によく似ていた。
(しかし、考えなければならないことだらけだな)
等活に潜む蛭子のこと。
『斑さん』の遺体を探すためにアビスへ潜ること。
そして有坂と真白。
あの二人を、いつまで自分の元にいさせるべきなのか。
そんな事を考えていたとき、ふと背後から微かな摩擦音が響いた。
片桐は振り返り、足を止めて亀裂の奥を睨む。
(……生き残りか)
腰から二本の短剣を抜き、油断なく構えながら後退る。
細い亀裂の中は、戦うには場所が悪すぎる。
耳を澄ますが、何も聞こえない。
相手も暗闇の向こうで息を潜めている気配がする。
片桐はそのままジリジリと後ろに下がりながら、亀裂の出口を目指した。
しかし。
突如として相手が動いた。
ソレは床から壁を伝い、天井へと張り付き、縦横無尽に亀裂の中を這い回りながら猛スピードで近づいてくる。
(……くそっ)
動くたびに響く質量音が異様に大きい。
そんな規格外の相手と、この狭所では戦いきれない。
片桐は踵を返して走った。
摩擦音がどんどん背後へ迫ってくる。
亀裂の出口まであと数歩というところで、気配は完全に真後ろまで肉薄していた。
「……チィ!」
回避は間に合わない。
瞬時の判断で、片桐は強く奥歯を噛み締めた。
生き残るために、どうしても『無茶』をせざるを得なかった。
直後に襲い来る代償に絶望しながらも、他に手がなかったのだ。
何かに足を挟まれ、転倒する。
だが、その勢いを利用して上半身を起こし、振り向きざまに眼前の敵へと短剣を突きだした。
刃が柔らかい部分に深くめり込み、足への拘束が外れる。
急いで亀裂の外へ転がり出た片桐は、ポケットのタブレットケースから『飴』を取り出し、荒々しく噛み砕いた。
油断なく亀裂へ視線を固定する。
暗闇から姿を現した労働者は、恐らくかなり古い個体だ。
無機物との融合が完全に定着しており、厄介な強度を獲得していた。
管理母体である組立者が消滅したことで自立し、本来の単調な生態から逸脱した殺意を片桐に向け、その大きな顎を開いていた。
(時間をかけてはいられないな)
片桐は短剣を構え、一気にその労働者との距離を詰めたのだった。
――その直後にもたらされた強烈な『ツケ』が、現在の片桐の全身を内側から苛み、意識と意志を完全に停止させていた。
頭蓋が割れる痛み。
体の奥底から湧き上がる焦燥感と、抗いがたい重圧から来る逼迫感。
それらを先ほど噛み砕いた『飴』とウィスキーで無理やり麻痺させた。
目覚めると、辺りは暗闇だった。
その中で深く濁った息を一つ吐き出すと、再びタブレットケースから『飴』を取り出し、傍らのボトルを引き寄せて琥珀色の強い酒で喉の奥へと流し込んだ。
(目を、覚ましていたくない……)
抗うことのできない泥のような眠りの中へ、片桐の意識は再び沈んでいった。
翌朝。
静まり返った『REPAIR』の事務所には、片桐の浅く不規則な寝息だけが響いていた。
有坂は不安げな視線をソファの片桐に向けたまま、所在なげに立ち尽くしている。
一方の真白は、テーブルに放り出された数枚の資料とデータディスクを、興味深そうに見つめていた。
結城からの使いが置いていった、起源の一体『蛭子』のデータ。
『蛭子はすでに、ゲートタウンのすぐそこまで達しています』
事務的なその一文が、真白の好奇心と焦燥を刺激する。
すぐそこ、とはどこだ。
その不気味で巨大な粘液の化け物は、これまで表層のどこかで獲物(人間)を喰らい、際限なく肥大化を続けてきたという。
片桐はそれを知っていたはずだ。
そして、有坂さえも多少のことは知っていたという。
「ねぇ、それであんたはどうするつもりなの?」
資料から目を離さないまま、真白は有坂に問いかける。
「どうする……って?」
確認するまでもない。
その返事はつまり、何もするつもりがなかったということだ。
「これ、知ってる人のほうが少ないんでしょ?」
真白は熱いコーヒーを口に含む。
「なら、知っちゃったあたしたちでどうにかするべきなんじゃない?」
有坂は答えない。
「え……まさか」
「いや、に……逃げないよ」
有坂に逃げるつもりはなかった。
どうにかしたい気持ちもある。
しかし、何ができるのかが分からない。
蛭子を独自に探っていた片桐が動けない今、自分に一体何ができるというのか。
真白はため息を一つつくと、立ち上がった。
「あたし、ちょっと行って聞いてくるわ」
有坂は素っ頓狂な声を上げる。
「まさか、その結城さんって人のところですか?」
真白はあっけらかんと「そうよ」と一言だけ返す。
「あんたは? 来るの? 来ないの?」
有坂から見ると、真白はあまりにも直情的に動きすぎている。
以前、R.I.N.G.Sの関連会社で働いていた自身の常識からすれば、アポイントもなしに巨大企業の拠点へ乗り込むなど無作法極まりない。
門前払いされるのが目に見えている。
「あのねぇ、律」
返事にまごつく有坂に、真白はさらに言葉を継いだ。
「これにはね、この街が危ないって書いてあるのよ? 分かる?」
「分かってますよ」
「分かってないわよ」
真白は即座に言い返す。
「おじさんはもちろんだけど、あんたも意外とズレてんだね」
「何の、ことですか」
怪訝そうにする有坂へ、真白はため息を一つついた。
「そうよね。いくらあいつらがクズだからって、御奉賛様に向かって机や椅子を蹴り飛ばすなんて普通はしないもの」
まぁいいわ、と真白は仕切り直す。
「あのね、この街はろくなものじゃないけど、それでも普通の人もいるし、たとえどんな人間だったとしても死んでいい理由なんてないでしょ」
真白の眼差しが、有坂を真っ直ぐに射抜く。
「つまり、今、この情報をどう使うかは、あたし達にかかってるってわけ」
弥生の理に従事していたとき、相手にするのは老人や子供、怪我をしたスクレイパー達、所謂弱者たちであった。
この街に蛭子とやらが現れて、真っ先に命を落とすのはそういう人達だ。
「行くわよ。どこまでやれるか分からないけど、だからと言って何もしないのはごめんだわ」
有無を言わさず有坂を連れ出し、真白は蟻塚へと向かった。




