第20話
真白をその場に残した片桐は、そのまま単身で蟻塚へと足を向けた。
無機質なエレベーターホールに到着すると、天井隅に設置された監視カメラのレンズに向かって軽く手を振る。
微かな機械音と共に認証が通り、重々しい扉が滑るように開いた。
ネクサステックの事務所は、相変わらずこの街に似つかわしくないほどに整然としていた。
フロアのあちこちには、完全武装したT.A.M.Oの兵士たちが彫像のように待機しており、エレベーターから降りてきた片桐に対して無言の警戒の気配を静かに放っている。
結城はすでに奥で待ち構えており、顔に張り付いたような笑みを浮かべて片桐を応接室へと迎え入れた。
「薬品の投下は終わった。このあと、事後確認に向かう」
「お疲れ様でした。しかしわざわざここにいらしたのは、その報告をする為だけではないでしょう?」
結城の言葉に頷くと、片桐は背後に控えるT.A.M.Oの兵士へ視線を送った。
「結城さん。また頼みがある。いつも俺について回ってくる女が、地下へ降りてこないように手配をしてほしい。立ち入り禁止の処置に合わせて、そこの連中を一人、ゲートの前に立たせておいてくれないか」
「軍の一員である彼らを、ですか?」
結城はわざとらしく目を丸くし、続ける。
「あの方たちは直接私の指揮下にはありません。それに、わざわざ人員を割いて威嚇などしなくとも、あなたの方で止めるよう伝えれば済む話では?」
片桐は短く息を吐いた。
理屈の上では結城の言う通りだ。
だが、事態はそう単純ではない。
真白は、ただ突き放せば大人しく引き下がるような手合いではなかった。
それに強制的に遠ざけたところで、かえって独自に動き回り、自ら危険に首を突っ込むことになるだろう。
何より彼女は、かつての仲間である『斑さん』の娘だ。
危なっかしいと分かっていながら、真白を自由にさせるだけの非情さを、片桐は持ち合わせていなかった。
第三者からの厳格なルールと、逆らいようのない軍事力という「不可抗力」を見せつけて諦めさせるのが、一番角の立たないやり方だと、片桐は判断したのだ。
だがそんなことを結城に伝えたところで、理解してもらえるとは思っていない。
しかし、片桐が沈黙を保っていると、結城は薄い笑みを深めて言った。
「まあ、実際のところ、あなたの心中はお察ししますよ」
「……どういう意味だ」
結城は笑顔を崩さず続ける。
「あなたのかつてのお仲間。『斑さん』、でしたか。その娘となれば、むげに扱うわけにもいきませんものね」
その瞬間、場の空気がわずかに張り詰めた。
片桐の表情はいつもと変わらない。
内心を隠し、ただ目の前の事実――ネクサステックが、己の過去から現在の交友関係に至るまで、すべてを掌握しているという事実だけを認めていた。
数秒の静寂。
片桐は、結城の探るような視線を真っ向から見据え、大きく息を吐いて言った。
「……ここにあいつを連れてこなかったのは、正解だったみたいだな」
そもそもとして連れてくるつもりなど一切なかったのだが。
「どうやらあんたは、知り合いに紹介したいタイプの人間じゃないみたいだ」
物理的な暴力が可愛く思えてくるような質の悪い、情報という名の暴力。
それを平然と振りかざす目の前の男への、それは片桐の偽らざる本心だった。
用件は済んだとばかりに応接室を後にした片桐を、結城はエレベーターホールまで見送りに来た。
「そう邪険にしないでください。これが私の仕事なのですから」
帰りのエレベーターの重々しい扉が閉まる直前、結城は僅かに目を細めてそう言い放った。
完全に閉ざされた無機質な箱の中で、片桐は重低音を響かせながら降下していくエレベーターの壁に背を預けた。
下層でエレベーターを降りた片桐は、そこからさらに蟻塚の地下へと深く下っていく。
やがて辿り着いたのは、コンクリートの壁に走る大きな亀裂。
そこを潜り抜けた先は、ゲートタウンの領域外――アビス第2層『黒縄』、かつての地下鉄跡の遺構である。
静まり返った黒縄の暗がりをしばらく進むと、目的の場所に到着した。
組立者と労働者の棲家に通じる、もう一つの巨大な亀裂前。
片桐はそこで立ち止まり、結城に用意させた軍用の防毒マスクを傍らに置くと、コンクリートの瓦礫の上に静かに腰を下ろした。
亀裂の奥には、ダストシュートから投下された重ガスが充満し、床を這うようにゆっくりと沈殿を続けていることだろう。
ガスが完全に落ち着き、安全に内部を歩き回れる濃度になるまで、まだしばらくの時間が必要だった。
深い静寂の中、片桐の意識は、亀裂の奥の暗闇からさらに深く――アビス第3層『叫喚』、そしてその先にある第4層『焦熱』へと、否応なく引きずり込まれていった。
あの『焦熱惨禍』以来、片桐はそこへは一度も足を踏み入れていない。
『斑さん』をはじめとする、かつての仲間たちが全滅し、置き去りにされた場所、焦熱。
真白の依頼を受けるつもりでいるとはいえ、あの階層へ再び向かうことに、当然気は乗らなかった。
だが、どうせ行くのであれば、せめて『斑さん』をはじめとする、かつての仲間たちの骨や形見だけでも回収し、弔ってやりたいという思いもあった。
ただしそれは彼らがそこで、ただの死体として残っていてくれさえすれば、の話だが。
アビスにおいて、「死体がない」ということは、誰かに手厚く回収されたことを意味するわけではない。
最悪とも言える可能性に行き着くくらいならば、どれほど無惨に朽ち果てていようとも、ただの死体としてそこにそのまま残っていてくれた方がまだいい。
片桐は目を閉じ、無機質な暗闇の中でただ時間をやり過ごした。
やがて、頃合いを迎える。
片桐は目を開け、傍らに置いていた防毒マスクを手に取り、頭から深く被った。
立ち上がり、静かに靴底を鳴らす。
真っ暗な亀裂の奥へ、片桐はただ一人、足を踏み入れていった。




