第19話
フェンスに囲まれた古いバスケットコートの跡地。
剥げかけた塗装の上に立つ片桐は、構えを取ることなく、ただ気怠げに両手を下ろして立っていた。
真白は対照的に、身を低くして身構える。
心臓が早鐘のように鳴っていた。
緊張もある。
しかしこれは、途方もない焦燥だった。
(……このままだと、あたしは確実に置いていかれる)
真白は、自分の実力を理解している。
これまで何度か無理を通し、道理を引っ込めさせてきた。
片桐の庇護に甘んじ、なんとか食らいついてきた。
だが、そんなものは平時の誤魔化しに過ぎない。
今日、ダストシュートで片桐が見せた、一切の躊躇がない『害虫駆除』としての作業。
魔物とは言え、元は人間。
だが、この男にとってそんなことは微塵も気にすることではない。
片桐が生きる世界の基準は、まったく別なところにあるのだ。
この先、いざという決定的な場面が訪れた時、片桐は必ず自分を「足手まとい」として切り捨てる。
時折見せるあの冷たい目で、容赦なく置き去りにするだろう。
それが、我慢ならなかった。
ここで証明しなければならない。
父の亡骸を探しに行く時、自分には彼の隣に立つ価値があるのだということを。
「……ッ!」
鋭い呼気と共に、真白はアスファルトを蹴った。
以前、仮面をつけて彼に挑んだ時は、単なる力任せの喧嘩殺法だった。
だが今回は違う。
以前のように攻撃の後隙を狙って投げられるつもりはない。
わざと大振りにした右フックをフェイントにし、沈み込むようにして放つ左の掌底。
だが、それすらも躱されることを見越してのフェイントだった。
本命は、直後に死角から放つローキックまでが一連の、コンビネーション。
完璧なタイミングだった。
しかし、彼女の拳も、足も、ただ虚しく空を切った。
「――っ!?」
片桐はただ、避けているだけだ。
(……馬鹿にしてっ!)
再度フェイントを織り交ぜた、コンパクトな連撃。
だが片桐は真白の攻撃が届くほんの一瞬前に、わずかに重心をずらして、ただそれを躱していく。
蟻塚の地下で片桐を尾行した時の記憶が、脳裏を過る。
あの暗がりの中、完全に見失ったと思った直後、背後から不意に声をかけられた。
その時、声の主を理解したうえで敢えて振るった拳すら、彼はただ軽く避けてみせたのだ。
あの時の不意打ちすら当たらないのだから、正面からの攻撃など当たるはずがない。
頭の片隅でその事実を理解しながらも、真白は必死に食らいつく。
「くそっ……!」
真白は歯噛みし、さらにステップを刻んで連撃を放つ。
右、左、回し蹴り。
息が上がり、視界が暗くなっていく。
だが、当たらない。
かすりもしない。
掴もうと伸ばした腕さえも、片桐は落ち着いてただ、払い落としていく。
目の前の男は真白の動きを完璧に見切っている。
どれほど腕を振るっても、どれほど強く踏み込んでも、片桐という存在に手が届かないのだ。
しかし。
「なんで……どうして攻撃してこないのよ……っ!」
自分の攻撃が当たらない以上に腹立たしかったのは、ここまでの数十秒に及ぶ怒涛の攻防の間、片桐が一度も反撃してこないことだった。
最初と比べ、明らかに攻撃速度は落ちている。
動きも単調になっている自覚もある。
だが片桐は一切反撃をしてこない。
真白はそれが何よりも、腹立たしかった。
(……動きは、悪くない)
荒い息を吐きながら必死に攻撃を繰り出す真白を見下ろし、片桐は必要最小限の動きで躱し続けた。
腕力はたかが知れている。
しかしそれを補う為の技術は確かに存在している。
だが、それだけだった。
以前、仮面をつけて挑んできた時に比べれば、重心の移動も、攻撃の散らし方も格段に良くなっている。
これもまた、父親である『斑さん』譲りの闘争心と生命力なのだろう。
だが、それでも片桐に触れるには足りなかった。
片桐の目には、真白の動きがすべて「線」として見えていた。
動作、視線の動き、呼吸のタイミング。
そこから導き出される次の軌道は、あまりにも明白で、あまりにも、単純だった。
(俺も、そう思われていたんだろうな)
片桐が今ほどの強さを持つに至ったのには、明確な理由があった。
かつて焦熱惨禍を生き延びた後、それまで調律者として後方支援と言う立ち回りしかしてこなかった片桐は、自ら戦える存在になるために、まさにこの閉鎖されたバスケットコートで基礎鍛錬を行い、己の肉体を作り上げた。
しかし、基礎鍛錬だけで到達できる領域などたかが知れている。
今のこの強さは、その先にある狂気的な繰り返しの日々によって練り上げられたものなのだ。
「どうする? もうやめるか?」
挑発的な片桐の言葉に、真白は分かりやすいほどに苛立ちを募らせた。
「っざけんじゃないわよ!」
何も証明できていない。
できそうにも、ない。
焦りは苛立ちを生み、苛立ちはただ空回りし続ける。
「あんたからも攻撃してきなさいよ!」
限界を迎えた真白が、怒りに任せるように大振りの右拳を突き出した。
「そうか、なら」
と片桐は、突き出された真白の右腕をがっちりと掴んだ。
(きた!)
真白はこの時を待っていた。
わざと隙の大きい一撃を放ち、片桐に受け止めさせる。
それが真白の目論見だった。
片桐に腕を掴まれた瞬間、真白はそれを支点にして彼の懐へ深く潜り込む。
そして、自身の重心を一気に真下へと落とした。
以前、男に襲われた際に使った『体落とし』の直下版。
相手の勢いと重心を逆手に取り、硬い地面へと顔面から叩きつける必殺の一手だ。
だが、全体重を乗せた彼女の渾身の引き落としを受けてなお、片桐の体は岩のように微動だにしなかった。
「え……っ」
真白の目が見開かれる。
片桐はその動きすらも、完全に読み切っていた。
真白が重心を沈め、下へ引き落とそうとしたまさにその瞬間。
片桐は、掴んでいた彼女の腕を、逆に強い力で上方へと引き上げた。
下に向かっていたベクトルを強引に上へ書き換えられ、真白の身体が僅かに中空に浮き上がる。
完全に無防備となった真白の軸足を、片桐は流れるような動作で刈り取った。
そして、空中に浮いた身体をそのまま、背中から硬いアスファルトへ勢いよく叩きつけた。
「が、はっ……!」
肺の中の空気が強制的に弾き出され、真白が苦悶の声を上げる。
「い、た……っ」
背中の激痛と、どう足掻いても覆らない実力差への絶望。
真白は抗うことを諦め、荒い息を吐きながらアスファルトの上に仰向けに寝転がった。
その姿を、片桐は表情を変えることなく見下ろしている。
「なんなの……どうして、そんなに強いの……?」
悔しさを滲ませた声で、真白がぽつりとこぼす。
「……まぁ、場数、だろうな」
「でも……弱かったら場数を踏むことすらできないじゃない……」
アビスという過酷な環境を生き抜くための場数。
真白はそう思って言葉を紡ぐ。
弱い者は、強くなる前にアビスに呑まれて死ぬ。
だからその理屈は成り立たないはずだ、と。
「そうじゃない」
片桐は、地面に転がる真白を見下ろしたまま、抑揚のない声で返した。
「アビスに出るための『場数』だ」
過去、文字通り地獄のような毎日を送った記憶を、片桐は『場数』という一言だけで切り捨てた。
「……手合わせは終わりだな。俺は行く」
片桐はそれ以上語ることなく、踵を返す。
その背中は、真白がどれほど意地を見せようとも決してついていくことのできない、完全なまでの宣告だった。




