第18話
トクさんの店を満たしているのは、先ほどまでの非現実的なものとは違う、どこか間延びした朝の空気と、小気味よい咀嚼音だけだった。
大盛りの唐揚げ定食と格闘する真白の横で、片桐は残っていたほうじ茶を飲み干し、ふと店主に視線を向けた。
「トクさん、最近この辺で何か変わったことはないか」
「変わったこと?」
トクさんは布巾でカウンターを拭きながら、少しだけ天井を見上げて思考を巡らせた。
「そうだな……『等活』がなんかヤバいとかで、稼ぎに行くスクレイパーどもが減ってきてるくらいか」
そう言って、朝の時間にも関わらず空いている店内を見回したトクさんは肩をすくめた。
等活――ゲートタウン周辺のアビス表層。
本来であれば、黒縄以下へ潜る実力を持たないスクレイパー達が日銭を稼ぎ、一攫千金の夢を見る狩り場だ。
だが今、そこには得体の知れない脅威が潜んでいる。
スクレイパーの間で噂されるその「ヤバい」正体を、片桐だけが分かっていた。
深層から上がってきた『起源』の一体、『蛭子』だ。
そのバケモノは等活で活動中だったスクレイパー達を呑み込み、自身の肉体の拡大を続けていた。
蛭子の存在を把握していない世間的には「最近、等活で行方不明になる奴が多い」程度の認識でしかない。
だが当然、行方不明者が急増すれば、どれだけ必要に迫られていたとしても、スクレイパー達は外へ出たがらなくなる。
片桐は無表情のまま、頭の中で直近の出来事を繋ぎ合わせていく。
外が危険だからと、スクレイパー達は街の中に留まり、散財することでストレスを発散している。
先日、店から金を盗んできた女を外へ逃がし、彼女を追ってきた半グレどもを片桐が蟻塚の中で「処理」したのも、その閉塞感が招いた結果だ。
そして、その時ダストシュートに放り込まれた半グレの死体が、今回の重ガス駆除の対象(魔物)になっていた。
(繋がってるわけだな、自分の行いというやつは)
片桐は小さく息を吐き出し、自嘲した。
悪い選択肢だったとは思わないが、まさか上手く処理したつもりの結果が巡り巡って、金にもならない仕事を増やす羽目になるとは、と。
(……少し、自重しないといけないな)
と片桐は心の奥底でぼやいた。
「ごちそうさまでした!」
横でパンッと両手を合わせる音が響いた。
見れば、大盛りだった白飯も山盛りの唐揚げも、綺麗に皿から消え失せている。
「お粗末さん。綺麗に食ってくれると気持ちがいいねぇ」
「美味しかったわ!」
トクさんの言葉に愛想よく笑った真白が、すぐに真剣な目をして片桐を見た。
「それでおじさん、次はどうするの?」
少し気後れしてしまっていた自分を、飯を食うことで無理やり上書きした真白の言葉には、焦りが端々に滲み出ていた。
「ガスの効果が出るまでまだまだ時間がかかる。お前は一度ガレージに戻っていろ。俺は少し、辺りをブラブラして時間を潰してくる」
片桐はそう言って真白を切り離そうとした。
だがそれは当然、嘘だ。
地下へ向かい、組立者と労働者どもが完全に溶け落ちたかを確認する必要があるが、そこに真白を連れて行くつもりはない。
しかし、真白は片桐の言葉を素直に受け入れようとはしなかった。
「……ねぇ、おじさん」
席を立とうとする片桐に向かって、彼女は鋭い声を投げかける。
「時間があるならさ、あたしと手合わせしてよ」
「手合わせ?」
片桐が振り向くと、真白は真っ直ぐにこちらを見据えていた。
以前、真白は仮面をつけた状態で片桐と戦ったことがある。
その時はあっさりとやられてしまったが、今回はそうはいかない。
何とかして片桐に自分の価値を証明しなければならない。
そして、証明する相手は片桐だけではない。
真白は今、先ほどのダストシュートでの仕事を見せつけられ、気後れしてしまった自分をどうにかして払拭したかった。
自分は足手まといではないのだと、他でもない自分自身にも証明したかったのだ。
真白の切実な想いのこもった視線を受けながら、片桐は極めて冷静に思考を巡らせていた。
(……ここで断ってガレージに帰れと言っても、どうせまたついてくるだろうな)
ならば下手に言い含めるより、ここで相手をして『ついてこられないくらいまで疲れさせておく』方が、事後確認を一人で終わらせるには都合がいい。
「……分かった」
片桐が短く答えると、真白の顔にパッと好戦的な色が差した。
「ついてこい。いい場所がある」
片桐は店を出ると、真白を連れてゲートタウンの喧騒から外れた人気のない区画へと足を向けた。
しばらく歩いた後、辿り着いたのは背の高いフェンスに囲まれた古いバスケットコートの跡地だった。
床面の塗装は剥げ、ゴールリングのネットは風化して千切れている。
(……懐かしいな)
ここはかつて、片桐が自分の体を仕上げるために、人知れず自主トレーニングに使っていた場所だ。
誰も寄り付かないこの閉鎖空間なら、誰の目も気にせず、心置きなく彼女を「黙らせる」ことができる。
「ここでいいだろう。ルールは、必要か?」
コートの中央で立ち止まった片桐が、ゆっくりと振り返る。
その目は、先ほどまで見せていた気怠げなそれではなかった。
「ルールなんていらないわ」
真白はそう言うと、両の手で頬を叩き、構えを取った。




