第17話
ダストシュートの奥底で響く鈍い破砕音だけが、等間隔に、いつまでも鳴り続いていた。
どれくらいの時間が経っただろう。
ふと、片桐が手を止めた。
用意されていたすべてのポリタンクを投げ終えたのだ。
片桐が真白へと振り返る。
その目は先ほどとは違い、いつも通りの気怠げな色へと戻っていた。
真白は無意識のうちに強く抱きしめていた自分の腕を、静かに解いた。
(……今のは、駄目だ。おじさんのやってることを見て、少し気後れしちゃってた)
アビスに潜るつもりでいる。
その中で何が起きるのか、今は想像することすら難しい。
だからこそ、目の前で起きていることくらいはしっかり見て、学習していかなくてはならない。
(突っ立ってないで、一緒に投げ込むべきだったんだ)
真白が歯噛みしている間に、片桐はすでに次の行動へと動き出していた。
「……この後はどうするの?」
「重ガスが底に沈殿し、効果を発揮するまでにはまだ時間がかかる」
辺りを巡回し、敵を探すのか。
それとも地下へと潜り、その時を待つのか。
しかし片桐の返事は真白の思っていたものではなかった。
「だから……朝飯の時間だな」
平然と言い放つ片桐に、真白は小さく息を吐き、足早に彼の横に並んだ。
「あたしも、ついていくわ」
そうか、と片桐は返す。
真白としては当然、この後もずっとついていくつもりだ。
それこそガスが充満したあとの『事後確認』まで。
だが、片桐にはそもそもそんなつもりはなかった。
彼は防毒マスクを一つしか手配していない。
最初から彼女をガスの充満する『事後確認』に連れて行く気などないのだ。
それは危険だからという理由の他にもう一つある。
昨日、地下で確認した魔物――かつては人間だった死体の中には、『弥生の理』のシンボルが刻まれた衣服を纏っている個体がいた。
あれは以前真白を狙った、『弥生の理』の一部派閥の残党だ。
秘密裏に片桐が処理し、蟻塚の住人によって金になるものだけを剥ぎ取られたあと、ダストシュートから投げ捨てられたのだ。
もしその事実を知れば、真白は『追手が消えた』と判断し、再び単独でアビスの深層へ向かう手段を探そうとするだろう。
だが、強力な酸性の重ガスを蔓延させることは、真白を魔物の元へ連れて行かないだけの十分な理由となる。
結果として、残党の死という事実を自然に伏せたまま、この騒動自体を終わらせることができるだろう。
二人は蟻塚を出て、ゲートタウンの片隅にある小さな定食屋へと向かった。
ガラッ、と引き戸を開けると、強烈なみそ汁の匂いとむわっとした熱気が顔に吹き付けた。
「いらっしゃい……おお、片桐か。朝から珍しいな」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、鉢巻に前掛け姿の店主、トクさんだった。
「腹が減ってな。開いてて助かった」
「おう。……で、なんだ、また見かけない奴を連れてきたな」
トクさんは片桐の背後に立つ真白を見て、興味深そうにニヤリと笑った。
「お前もずいぶん人間らしくなってきたじゃねぇか」
以前有坂に事務所の場所を教え、助けを求めるように勧めたのもこの男だ。
これまで一人で生きてきた片桐の周りに人が集まるのを、どこか楽しんでいる節がある。
「遠野真白です。なんというか、居候みたいなもんですね」
真白が愛想の良い笑みを浮かべて頭を下げると、トクさんはその物怖じしない様子に鼻を鳴らした。
「ふん。まぁ座りな」
促されてカウンターに腰を下ろすなり、真白はメニューの札も見ずに言った。
「唐揚げ定食。ご飯大盛りで」
その空気を読まない注文に、トクさんは目を丸くした。
本来朝のこの時間は、忙しない労働者向けに用意した日替わりの『朝定食』しか出していない。
それがこの店の暗黙のルールだ。
普段の荒くれたスクレイパーが相手なら、「壁の札が読めねえのか」と一蹴しているところだった。
だが、トクさんは真白の顔をじっと見た後、「仕方ねえな」と苦笑いを浮かべた。
「……朝っぱらから大盛りとは。若さってのはいいねぇ。少し待ってな」
言うなり、トクさんは奥のコンロに火を入れ、油の準備を始めた。
みそ汁の香りに混ざって、間もなく冷たい鶏肉が熱い油の中でパチパチと爆ぜる小気味良い音が店内に響き始めた。
片桐はその特別な計らいに何も言わず、ただ出された温かい茶を啜った。
やがてカウンターにドンと置かれたのは、山盛りの白飯と、大ぶりの唐揚げが皿から溢れんばかりに積まれた定食だった。
「ほらよ。残したら承知しねぇからな」
「こんなの全然余裕よ。いただきまぁす!」
トクさんの呆れたような冗談に、真白は両手を合わせて笑顔で返した。
そしてつい先程まで行われていた凄惨な毒殺作業など微塵も気にする様子もなく、すぐさま唐揚げに齧りついた。
サクッという良い音を立てて、肉汁ごと豪快に平らげていく。
片桐は自分の朝定食を箸で運びながら、横目でその見事な食べっぷりを見ていた。
(……あの人の娘なだけはあるな)
真白の父親である「斑さん」も、仕事の後にはビールと大量の唐揚げを食べていたものだ。
間違いなく、彼女にはこの狂った世界を生き抜く為に必要な強烈な生命力と意地がある。
何気ない朝の光景。
油の爆ぜる音と、無骨だが温かいトクさんの声。
片桐はそんな風景を横目に見ながら、僅かに口角を上げるのだった。




