第16話
重い足取りで『REPAIR』のガレージに戻ると、生活スペースからは出汁のいい香りが漂っていた。
キッチンでは、有坂が手際よく晩御飯の用意をしている。
「ああ、おかえりなさい」
片桐の足音に気づいた有坂が、フライパンから目を離さずに声をかけた。
「……今日の当番は真白じゃなかったか?」
「ええ。だけど、買い物に行くと言って出かけたじゃないですか? あのあと、まだ帰ってきてなくて」
有坂はそこで火を止め、振り返って片桐を見た。
そして、その全身が砂や埃、得体の知れない汚れにまみれていることに気づいて目を丸くする。
「随分と汚れましたね。……仕事の方は、片付いたんですか?」
「いや、まだだ。だが、今日は終いだ」
片桐が短く答えたその時、ガレージの入り口から軽い足音が聞こえてきた。
「ただいまー。ちょっと遅くなっちゃった」
悪びれる様子もなく現れた真白の両手には、紙の買い物袋が二つ提げられていた。
片桐は彼女を無言で見やる。
つい一時間ほど前まで地下の暗がりを這いずり回っていたはずの彼女の服には、埃一つついていない。
シャワーを浴びてきたのか、その長い髪は僅かにすら汚れていなかった。
片桐から「帰れ」と置き去りにされた後、彼女は自分なりに考え、一度どこかで身綺麗にしてから買い物をして帰ってきたのだ。
素知らぬ顔で。
「おかえりなさい、遠野さん。遅かったですね」
「ごめんごめん、ちょっと遠くの店まで足伸ばしててさ」
あっけらかんと嘘をつく真白と、一度だけ視線が交差する。
「おじさん、そんな格好で台所に近づかないでよ」
そう言うと真白は「今度当番変わってくださいね」と言う有坂をあしらいながら2階へと上がっていった。
片桐は小さく息を吐くと、今日のことには一切触れず、汚れを落とすために自らも洗面所へと向かったのだった。
「……いただきます」
ほどなくして食卓に並んだ有坂の手料理を、三人で囲む。
二人が居候を始めてから、有坂が提案した当番制。
その結果、当たり前の景色になったガレージの夜。
いつものように有坂が世話を焼き、真白がそれを当然のように受け入れる様を見ながら片桐は黙々と食事をする。
その日はそうして、静かに終了した。
翌朝。
片桐が蟻塚に向かうと、エントランスで結城が待っていた。
よくこの時間だと分かったな、と言いかけたところで、街ごと監視されているという事実を思い出し、言葉を飲み込む。
結城は対象となるダストシュートの正確な場所を教える為に待っていたとい言い、場所を聞いた片桐は軽く手を上げ、再び一号塔の地下へと降りていった。
「ここがあの場所の真上か」
現地に到着した片桐は、指定されたダストシュートの前を見て独り言ちた。
閉鎖された地下空間。
そこで生まれた魔物はどこにも行くことができず、ただ存在していた。
だが東京の混乱が一段落し、この場所がゲートタウンとして人々を受け入れるようになったことで、上から様々なものが落ちてくるようになった。
その環境の変化が、偶然にも彼らに新しい役割を与え、新種としての魔物へと進化させた。
一晩考え、恐らくそういうことだろうと、片桐は結論づけた。
もちろんこれに確固たる根拠はない。
だが魔物など総じて誰かの憶測のもとに成り立っている存在だ。
徘徊者も反転者も、そうして誰かによって名付けられた存在に過ぎないのだ。
ネクサステックが手配したバリケードが周囲を完全な立ち入り禁止区域に指定しており、いつもは浮浪者がうろついているであろう空間も、今は完全な無人となっていた。
バリケードの内側には、赤と青の目印がつけられた大量のポリタンクが整然と積み上げられている。
そしてその山の頂上には、片桐が要求した軍用防毒マスクが収められた、頑丈な専用ハードケースがぽつんと置かれていた。
片桐はダストシュートの縁に立ち、底の見えない暗い穴を見下ろした。
穴の底からは何の音も聞こえない。
地下の魔物たちが今もあの空間にいるか、底の亀裂から外へ出払っていないか、見に行く必要はないと思った。
上からゴミなどが落ちてきていないこの時間帯、巨大な組立者は起動しておらず、労働者たちもそのほとんどが休眠したままのはずだ。
それに多少亀裂の外に出ていたところで、発生したら重ガスはその亀裂を外へと流れていく。
ならば、労働者が寝ていようが起きていようが、ガスが充満しさえすれば、結果は同じなのだ。
片桐の背後。
少し離れた場所には、真白の姿があった。
結局、彼女は今日も大人しく留守番をしていることはなく、勝手に現場までついてきてしまった。
昨日と違うのはその服装だった。
「買い物は、それか?」
片桐の言葉に真白は得意げに頷く。
「動きやすい格好なら何でもいいやって思ってたけど、スウェット(ああいうの)って色んな場所に引っ掛かるのね」
それを知れただけでもよかったわ、と笑う彼女は、今日は体のラインに沿った伸縮性のある生地の服を着ていた。
片桐はもはや彼女を咎めることも、追い返すこともしなかった。
言っても聞かない娘だが、肝心なところは上手くやる。
ならばある程度好きにさせても問題ないだろうと判断したのだ。
片桐は無言のまま、赤い印のついたポリタンクを一つ持ち上げた。
数十センチ四方の暗い投入口へ、何の迷いもなく、それを放り投げる。
タンクがぶつかりながら落ちていく大きな音を聞きながら、次の青いタンクを持ち上げた。
数秒の静寂の後。
遥か下方から、容器が砕け散る鈍い破砕音が響いた。
続いて、手にしていた青いポリタンクを同じように投げ落とした。
シュートの底、あの巨大な肉塊の腹の上か、あるいはプラットホームの床では二つの容器が砕け、液体が混ざり合っている。
そこで発生した黄緑色の重い毒ガスは、魔物どもが寝床としている空間に沈殿していく。
コンクリートや鉄筋の装甲には効かずとも、それらを繋ぎ止める粘膜を強酸が焼き尽くしていくはずだ。
休眠中の魔物たちは、臭いにも痛みにも気が付くことなく、もがくことすらせずに自らの肉が溶けていくのをただ黙って受け入れることだろう。
片桐はまた、赤いタンクを投げる。
そして、青いタンクを投げる。
一定のリズムで。
ただ黙々と、機械的な作業としてそれを繰り返した。
その行動は確かに『害虫駆除』以外の何でもなかった。
真白は、自らの腕を抱くようにしてその光景を見つめていた。
次々とポリタンクを底へと投げ込み続ける片桐の横顔には、僅かな感情の揺らぎすら見当たらない。
何十という未知の怪物を、ただただ効率的に薬品で虐殺しているというのに、彼の目はひたすらに冷え切っていた。
(この人は……)
依頼をするに足りる、頼りになる大人。
そう思っていたはずの片桐の背中が、それだけではないようにも見えた。
真白は無意識のうちに、強く自分の体を抱きしめる。
ダストシュートの奥底で響く鈍い破砕音だけが、等間隔に、いつまでもゲートタウンの空気に吸い込まれていった。




