第12話
壁に穿たれた亀裂は、人一人がようやく通れる程度の幅しかなかった。
先に足を踏み入れた片桐のライトが、いびつな空洞を照らし出す。
それは自然に形成されたものではない。
剥き出しになったコンクリートの断面は力任せに粉砕され、太い鉄筋が飴細工のようにへし折られて壁面に押し込まれている。
ただ純粋な力によって、岩盤をゴリゴリと削り抜いたような、荒々しく暴力的な通路だった。
(さっきの蟻型の魔物が掘り進めた道か)
しかし、と片桐は自問する。
(あんな、半分自壊しているような魔物にこれだけのことができるとは思えないな)
だとしたら、考えられる可能性は一つだ。
(……個体差、か)
先ほど光の中に浮かんだ蟻型の魔物の顔、その顔に片桐は見覚えがなかった。
(出来たてで不安定。見たことのない顔……ということはあれは、昨日の半グレのどれかだったのかもしれない)
はっきり言ってしまえば先ほどの魔物は雑魚だった。
だが同じ蟻型の魔物の中にはコンクリートを砕き、鉄筋を曲げて道を作ることができる個体もいる。
片桐はそう推測し、無言のまま奥へと進んだ。
通路は水平ではなく、蟻塚の地下深くへと斜めに下っている。
数分ほど息苦しい通路を抜けると、ふいに視界が開け、空気が一変した。
カビと錆、そして薄いピンクの超微細粒子が混ざり合った、独特な匂い。
ライトの先には、朽ち果てたタイル張りのプラットホームと、錆びついた線路の跡が延びている。
「……なるほどな」
蟻塚の地下に魔物が出ることなど非常に珍しいことだと思ったが、その道がアビスへ通じているのなら納得のできる話である。
「何……ここ」
真白が息を呑んで周囲を見渡している。
「ここはアビスにおいて『黒縄』と呼ばれているところだ」
本来ゲートタウンの中にいては見ることのない景色。
ゲートタウンの直下に存在していても、そこに繋がる道は存在しておらず、干渉することのない場所。
「どうやら、あの蟻のような魔物が掘り進めた結果、道が繋がってしまったようだな」
片桐が周辺をぐるりとライトで照らしたその時だった。
暗闇の奥から、足を引きずるような人影が近づいてきた。
ライトの端に浮かび上がったそれは、かつては人間であった。
だが、今はただの肉塊と無機物の融合体。
アビスに存在する魔物、徘徊者だった。
顔の右半分にはひび割れたアスファルトがべったりと融合し、胸部から腹部にかけては錆びた金属片が肉に食い込むように同化している。
片桐はナイフを抜かず、背後の真白へ声を掛けた。
「お前ならあいつをどう処理する」
試すような低い声。
真白は無言で徘徊者を正面に捉えながら、相手の弱点を探るように視線を巡らせている。
だが、彼女の口から言葉は発せられない。
(どこを攻めればいい……?)
相手は生き物ではない。
しかも人間の急所であるはずの頭部や心臓は、無機物の装甲によって歪に覆い隠されている。
首を狙うべきか、それとも装甲の隙間か。
そもそもこれまでのように素手で戦ってもいい相手なのだろうか。
真白の思考が数秒の迷いを生んだ、その瞬間だった。
片桐の体がブレた。
足音一つ立てずに滑るように距離を詰めると、徘徊者が反応するよりも早く両手で頭を掴み、強引に横へと捻る。
顔面に埋まったアスファルトの重さを最大限に利用するように、一呼吸のあいだでその首を折り曲げたのだ。
声なき痙攣と共に、徘徊者はただの動かない肉の塊となって崩れ落ちた。
「その迷っている時間の分だけ、死ぬ確率は増えていく」
片桐は真白へと振り返り、言葉を続ける。
「魔物は個体によって様相が違う。瞬時に判断して動けなければ、戦う前に死ぬことになるぞ」
アビスの現実を叩きつける厳しい言葉に、真白は悔しそうに唇を噛んだ。
「こんなに近くで見るのは……初めてなのよ」
強がる真白をよそに、片桐はすでに次の行動に移っていた。
彼は周辺を見回し、床に薄く積もった埃の削れ具合、僅かな気流の変化、そして微かに漂う腐敗臭を嗅ぎ取った。
過去、調律者として培ってきたトラッキング技術を駆使し、暗闇の中に残された僅かな痕跡を確実に辿っていく。
やがて二人は、線路の端に転がる異様な物体に行き当たった。
それは、首から上を丸ごと食い千切られたような真新しい死体だった。
着古した服の汚れ具合から、それがホームレスのものだと推測できる。
(道を作るための顎が武器になることを、これをやった奴は理解している)
未知の生態を持つ『何か』は、明確な縄張りを作っている。
ここに死体が捨てられているということは、このすぐ近くにその縄張りがあることを意味していた。
「ねぇ、あれ……」
真白が死体の奥を指差す。
壁の一部が大きく崩落し、二つ目の亀裂が口を開けていた。
「入るの? それともこのまま黒縄? の奥を調べるの?」
「入るべき、だろうな」
線路の先へ視線を向ける真白を、片桐は短く制した。
「偶然繋がった道だ。現在地も周囲の状況も不透明すぎる。これ以上の黒縄の探索をする理由がない」
片桐の判断に迷いはなかった。
彼は周囲を素早く見渡すと、足元に落ちていた分厚いトタン板を拾い上げ、二つ目の亀裂を外側から隠すように立てかけた。
その隙間から真白を先に押し込むと、自身もするりと内側へ身を滑り込ませた。
「これで、背後から別の魔物に急襲されるリスクは減る」
かもしれないな。そんな言葉は飲み込み、二人は再び土とコンクリートの入り交じる歪な通路を抜け、深部へと足を進めていった。




