第11話
「予行練習みたいなものよ」
真白は悪びれる様子もなく、あっけらかんと言ってのけた。
「……何のために」
「何のためって、それはもちろんおじさんがアビスに潜る時についていくための、よ。さすがに初めてだと色々迷惑かけちゃいそうだから、今から慣れとかないとね」
そもそも真白が片桐に近づいてきた目的は、アビスの『焦熱』と呼ばれるエリアに取り残されている、父親の亡骸を探し出すことだ。
だが、真白の想いを聞いた片桐の顔から、微かに表情が消えた。
「依頼は受けるが、アビスに潜る時にお前を連れて行くつもりはない」
その低い声音には、有無を言わさぬ冷たい威圧感が込められていた。
だが片桐の圧力は真白には響かない。
「嫌よ、ついていくわ。だって依頼主はあたしなんだから」
「無理だ」
と短く答えて、片桐は周辺をライトで照らして安全を確認した。
「いいか?『死ぬ』ことが当たり前の世界に、お前みたいな素人を連れていけるわけがない」
表層の『等活』から始まり、旧地下鉄エリアの『黒縄』、そして浅層の『叫喚』を抜けたさらに奥。
アビスの中層である『焦熱』は、どれほど腕の立つダイバーであろうと死と隣り合わせの場所だ。
「それだけじゃない。連れて行かないのは俺自身のためでもある。一人ならどうとでもなることでも、守る対象がいると上手くいかないことが多い……だから、だめだ」
片桐の突き放すような言葉に、しかし真白は一歩も引かずにその目を真っ直ぐに見据えた。
「あ、そ。じゃあいいわ。勝手に行くから」
その一言は、片桐の胸の奥にある重い扉を不快な音を立てて開いた。
(……勘弁してくれ)
片桐の脳裏に、かつての凄惨な記憶がフラッシュバックする。
『焦熱惨禍』。
熱と絶望が支配するその深淵で、片桐の目の前で命を落としたかつての仲間達、その一人である斑さん――遠野誠一の姿。
彼の娘である真白が、父親と同じように無鉄砲に暗闇へ飛び込み、同じ場所で、同じように死んでいく映像が、不意に片桐の思考を埋め尽くそうとした。
絶対に、それだけはさせてはならない。
そのために弥生の理の残党を秘密裏に処理し、今もこうしてそこから波及した問題の解決にあたっているのだ。
「いいか、父親のことは……」
俺が必ずどうにかする、片桐がそう言いかけた、その刹那だった。
カチリ、と背後の暗闇から、コンクリートを硬質な爪が引っ掻くような異音が響いた。
片桐は即座に真白を庇うように立ち位置を変え、手元のライトを音の源へと向ける。
強烈な光の輪の中に浮かび上がったのは、人の顔。
しかしその体は蟻のように平たく、肉体と無機物によって六本足となった異形の魔物だった。
だが、それは結城が見せた動画のシルエットからは想像できなかったほどに酷い有様だった。
肉体のあちこちが割れ、ちぎれ、無機物との結合部からは体液を滲ませながら不自然かつ不格好に蠢く、極めて不完全で脆弱な個体なのだ。
片桐は小さく息を吐き出すと、流れるような動作で腰のナイフを引き抜いた。
予備動作すらなく踏み込んで距離を詰め、魔物が顎を開くよりも早く、不格好な接合部の隙間――非常に脆いであろう箇所へと刃を正確に突き立てた。
甲高い軋み音が響き、不完全な蟻型の魔物は痙攣することすらなく、あっけなく活動を停止した。
ナイフの刃を軽く振り、片桐は鞘に収めた。
その光景を前に、真白はほんの僅かに頬を引きつらせたが、すぐに意地悪な笑みを浮かべて片桐へと向き直った。
「……まさか、こんな化け物が出るような場所に、あたしを一人にするなんて言わないわよね?」
この程度の相手お前なら大丈夫だ、そんな言葉をギリギリで飲み込んで、かわりに片桐は大きなため息をついた。
相手を過信させるわけにはいかないし、この状況で「帰れ」と言ったところで素直に聞くとも思えない。
この先目の届かない場所でうろちょろされる方がよほど仕事をやりにくい。
「……分かった」
片桐はまた、深く長い溜め息を吐き出した。
「大人しく俺の後ろをついてこい。それから、何か見つけても急に動くな、叫ぶな。いいな」
「もちろんよ。任せなさい」
何を根拠にしているのか、真白の足取りは軽く、片桐のすぐ後ろへと小走りでついていく。
ピタリと大きな背中に追いつくと、真白は片桐から見えない位置で、小さく安堵の息を吐き出した。
(……無茶を言ってるのは、あたしなんだけど)
前を歩く片桐の広くて分厚い背中を見上げながら、真白は内心で首を傾げていた。
(どうしておじさんは、なんだかんだ言って、いつもあたしの無茶を聞いてくれるんだろう?)
片桐が抱えるトラウマの深さも、彼が自分に向けている贖罪のような感情も知る由がない真白は、ただ不思議そうに、暗闇を切り裂いて進む彼の背中を見つめていた。




