第9話
蟻塚一号塔の一階、オフィスビルの名残を色濃く留める内部を奥へと抜け、片桐は太陽の光が完全に途絶えた暗い地階へと歩を進めていた。
大光量のタクティカルライトが照らし出す階段を降りながら、周辺に十分な注意を払う。
初めての場所、初めての相手。
生き残るために必要な情報が、今は圧倒的に足りていない。
地階に降り立った片桐の視界には、天井を這う無数の太い空調ダクトや等間隔に並ぶコンクリートの巨大な支柱、壁面に残る『案内図』と記された色褪せたパネルが飛び込んできた。
メンテナンスや搬入の為、本来十分な広さを確保されている通路は、しかし両脇に無秩序に積み上げられた家具や家電、腐敗した生活ゴミによってひどく窮屈に狭まっていた。
錆びついた防災用シャッターの前に敷き詰められたブルーシートや、腐った段ボールで組まれた寝床の山。
鼻を突く強烈なアンモニアと獣の臭いが、かつての洗練されたオフィスビルの面影を完全に侵食している。
しかし、この異様な光景の中で最も不気味だったのは、肝心の「住人」の姿が一人として見当たらないことだった。
結城は未確認の魔物の出現頻度が異常なまでに跳ね上がり、実害が出始めたと言っていた。
その結果、この周辺に居着いていた最底辺の人間たちですら、命の危険を感じて別の場所へと逃げだしたのだろう。
水の滴る音しか響かない、深い静寂に包まれたコンクリートの通路を進む片桐の足取りは慎重で、それ以上に静かだった。
散乱するゴミやガラス片を靴底で上手く避け、衣擦れの音すら極力立てないように体を動かす。
そして前方への視線とは真逆に、片桐の意識と感覚は、絶えず『背後』の暗闇に向けられていた。
(……しつこいな)
地階に降りる少し前から、何者かが片桐の後をつけてきていた。
そして相手はどうやら素人ではない。
それは靴音を立てず、慎重に距離を測っているその態度から推測できた。
だが、この換気機能がとうの昔に死に絶えた地下空間においては、どれほど音を消そうとも誤魔化せないものがある。
質量を持った人間が移動すれば、前方に押し出された空気が微かな波となり、それが『気配』として片桐の首筋や背中を撫でるのだ。
(戦いを心得ている体重移動の仕方……魔物の類ではないが、訓練された兵士とまではいかない。そして明かりも持たずに平気でついてくるこの無鉄砲さは……)
やがて、タクティカルライトの光が、壁面に大きく口を開けたコンクリートの『亀裂』と周辺に散らばる瓦礫を捉えた。
内側からの力によって生まれたその隙間の先を照らすと、道幅はかなり狭まっており、これまでのような整備された人間の領域の外であることが見て取れた。
(……さて、と)
片桐はライトのスイッチに手を伸ばした。
このまま未知の領域へ踏み込む前に、この背後の尾行者へ対処しておく必要がある。
(ある意味、魔物よりも厄介そうだ)
手元のスイッチを無音で押し込み、『消灯』する。
直後、視界が一瞬で完全な暗闇に呑み込まれる。
片桐はその闇に乗じ、隣に積み上げられた巨大な粗大ゴミの陰へと音もなく身を滑らせた。
呼吸を極限まで浅くし、心拍を落とし、冷たいコンクリートと同化するように気配を完全に断つ。
数十秒後。
背後の暗闇から、僅かな焦りから足音を殺す余裕すら失った人影が、亀裂の前へと姿を現した。
「……あれ?」
先行していたはずの明かりが突然消え、目標を見失ったことに戸惑った人影が、思わず小さな声を漏らして足を止める。
その瞬間、片桐は廃棄物の陰から静かに歩み出た。
「どうして分かった?」
「ッ!」
片桐が背後から声をかけると同時に、再びタクティカルライトのスイッチを入れる。
強烈な光の束が対象を照らし出した刹那、相手は振り返りざまに、一切の迷いを見せることなく、光源となっている片桐の顔面を正確に狙って右の拳を振り抜いてきた。
だが片桐は、眼前に迫るその拳を最小限の首の動きだけで風圧ごと躱すと、呆れたように頭を掻いた。
「おいおい。俺だって分かってるだろ」
「……念のためよ。襲われてからじゃ遅いでしょ」
空を切った拳をゆっくりと降ろし、ライトの逆光の中で目を細めながら、遠野真白は悪びれる様子もなく言い放った。
「で……どうしてここが分かった?」
片桐はライトの光量を落とし、眩しさを軽減するために光を床へと反射させながら、静かに問いただした。




