第5話
煌々と照らされた一号塔の入り口を抜け、内部の暗がりへと足を踏み入れた瞬間、空気が全身に纏わりついてきたような気がした。
だが片桐は躊躇することなく、素足のままで冷たく湿ったコンクリートの床を蹴って、もはや階段と化したエスカレーターを駆け上がる。
有坂が女を逃がし、真白が赤いコートを着て半グレどもを引きつけてくれていたおかげで、片桐にはわずかな時間の余裕が生まれていた。
それを利用して一足先に塔の内部へ侵入し、現在の構造の大枠を素早く頭に叩き込んでいたのだ。
蟻塚を構成する四つのビル。
その中で一番高いこの一号塔の一階から低層部にかけてはビザの切れた不法滞在者や、戦う気力すら失ったホームレスたちばかりだった。
彼らはただ暗がりにうずくまり、他者から奪われるだけの存在でしかない。
だが、階層を上がるにつれてその様子は変化していく。
そこには、他者から躊躇なく奪い取れるだけの『膂力』と『胆力』を備えた者たちが、それぞれの理由を抱えながら身を潜めている。
「絶対に逃がすな! 追え!!」
下層から、半グレたちの血走った怒声が反響しながら追いすがってくる。
十人は下らない彼らは、暴力を振るうことに躊躇を覚えない、凶悪な集団だ。
前回片桐が処理した教団の残党のような、拳銃を持っているだけの素人集団とはワケが違う。
まともにやり合えば、無茶を余儀なくされるだろう。
だからこそ、直接相手にするわけにはいかなかった。
片桐の狙いは、彼らがこの塔の住人たちの手によって処理されるよう、うまく誘導することだった。
怒号を背に受けながら、片桐はあえて歩調を緩め、住人たちが息を潜める深部へと足を踏み入れていく。
そうして薄暗い通路の角を曲がった直後、死角から鉄パイプを持った影が片桐へと飛びかかってきた。
だが、片桐は歩みを止めることすらなかった。
振り下ろされる鉄パイプを最小限の動きで躱すと同時に、男の顎を下から正確に打ち抜く。
くぐもった破裂音と共に、男は白目を剥いて崩れ落ちた。
片桐は男を一瞥もせず、ただ淡々と暗闇の奥へと駆け続ける。
暗がりからその様子を窺っていた他の住人たちは、即座に悟ったはずだ。
女性用の赤いコートを羽織って茶髪のウィッグを被り、素足で駆け抜ける中年の男。
そんな見るからに異常な出で立ちをした男が、一撃で相手を沈めたのだ。
『あれは自分だったかもしれない』
襲いかかるタイミングが僅かにズレていれば、今床に横たわっていたのは自分だったと、彼らは容易に想像できただろう。
そんなリスクを負ってまで、得体の知れない女装男から奪いたいものなどあるはずがない。
住人たちの狙いは、即座に切り替わった。
女装男という『異常』のすぐ後ろから、血眼になって突っ込んでくる大勢の半グレたち。
暗闇に潜む住人たちの目には、彼らこそが自らの明日の糧となる獲物として映ったはずだ。
半グレどもは上等な服やアクセサリーを身につけ、財布の中には中々の現金が詰まっているに違いない。
勝手の分からない他人の縄張りへと自ら飛び込んできた彼らは、これ以上ないカモである。
そして、その獲物を確実に仕留めるための『牙』や『爪』を、彼らは日頃から用意していた。
蟻塚の中層から上が真に恐ろしいのは、彼らがビルの内部構造を『生きた罠』として使いこなす点にあった。
獲物を招き入れた後、住人たちは逃さないようにと、侵入者の背後で密かにトタンやゴミの『間仕切り』を動かし、迷路を作り替えて退路を完全に塞いでしまうのだ。
そうして室内の構造を変化させながら、獲物が罠の奥まで自ら入ってくることを、蟻塚の住人たちは手ぐすねを引いて待っているのだった。
片桐がさらに上の階層へと到達した頃、背後から追ってくる足音の質が変わった。
「あ? なんだてめぇら……ッ!?」
「くそっ、離せ! やめろ!!」
威勢の良かった怒号は、生きた迷路に閉じ込められ、得体の知れない住人たちに取り囲まれたことへのパニックに変わり、やがて殴られ、蹴られ、肉が切られて骨が砕かれる、そんな凄惨な悲鳴へと変わっていった。
怒り狂っていた追跡者たちは今、暗闇の中で無数の捕食者たちに群がられ、身につけているすべてのものを――命ごと――剥ぎ取られている最中だろう。
片桐は暗がりの中に身を潜め、赤いコートの背中を壁に預けながら、静かに息を整えた。
下層から響いていた悲鳴や罵声は、少しずつ、だが確実に小さくなっていく。
やがて、完全な静寂が蟻塚に訪れた。
片桐はゆっくりと壁から背を離し、来た道を引き返そうと足を踏み出した。
直後。
不快な金属音と共に、片桐の目の前で薄汚れたトタンの壁がスライドし、退路が塞がれた。
暗闇の奥から、複数の気配が滲み出てくる。
返り血を浴び、暴力と略奪の熱に浮かされた住人たちが、充血した目で片桐を取り囲み始めていた。
彼らは一度は片桐の異常性を嗅ぎ取り、手を出さない賢さを持っていた。
だが、大勢の半グレを蹂躙したことで集団心理が暴走し、理性のタガが外れてしまっていたのだ。
目の前に残った最後の獲物も、数の暴力でなら押し潰せると錯覚しているのだろう。
窮屈なコートに身を包み、素足のまま冷たい床に立つ片桐は、周囲を囲む熱狂的な悪意に向けて、静かに口を開いた。
「こんな場所に来るんだ。財布や貴金属は、持ってきていない」
低く、しかしよく通る声が暗闇に響く。
「このコートとウィッグでよければ、置いていこう」
片桐は茶髪のウィッグを乱暴にむしり取って床に放り捨て、窮屈だった赤いコートを脱ぎ捨てた。
冷たい空気が、汗ばんだシャツ越しの肌を撫でる。
腕の可動域を縛っていた枷が外れ、片桐の肩がわずかにリラックスしたように下がった。
「だが、それだけで満足しないのなら――」
片桐の黒い瞳が、暗闇の中でも分かるほどに、殺気を帯びた。
「止めはしない。かかってくるといい」
ただの威嚇ではない。
踏み込めば確実に命を奪うという、片桐としての覚悟の表れであった。
直後、血の気に当てられ、完全に損得勘定を見失った三人の男たちが、奇声を上げながら片桐へと突っ込んできた。
片桐は素足の裏で床の感触を正確に読み取り、滑るように一歩を踏み込んだ。
先頭の男が振り回したナイフの軌道を首の皮一枚で躱し、そのまま男の肘の関節を逆方向に打ち据える。
骨が砕ける鈍い音と悲鳴が上がるより早く、片桐は手放されたナイフの柄を空中で掴み取り、二人目の男の太ももに深々と突き立てた。
三人目が振り下ろした鉄パイプの軌道を逸らすように、柄を握る男の手首を内側から強く叩き払い、無防備になった鳩尾に、全体重を乗せた素足の前蹴りを叩き込んで距離を空けた。
わずか数秒の出来事だった。
片桐は手についた血を倒れた相手のシャツで無造作に拭いながら、暗闇の奥で息を飲んでいる残りの住人たちへ視線を向けた。
「……まだ、やるのか?」
静寂が、痛いほどに張り詰めた。
熱狂に浮かされていた住人たちの目に、ようやく理性の光が戻る。
彼らはゆっくりと後ずさりし、やがて、塞がれていたトタンの壁が音を立てて開かれ、片桐のための道が作られた。
結果として、十人以上の半グレを正面から相手にすることなく、見せしめの数人を処理するだけで事は済んだ。
片桐は小さく息を吐くと、床に転がるコートとウィッグには目もくれず、自らが切り開いた血の匂いのする道を、素足のまま静かに歩き出した。




