第4話
「……本当に、嫌な靴」
それはただ走りにくいというだけの話ではなかった。
目に見えない様々な何かがしつこくまとわりついてくるかのような、そんな気がするからだった。
真白は狭い路地を駆け抜けながら、舌打ちとともにブランド物のヒールを左右に蹴り飛ばした。
必死になって逃げている様子、追っ手の気を引くための『演出』としてはこれで十分だろう。
ヒールを脱ぎ捨てた真白の足は、ストッキング越しにゲートタウンの冷たい地面を直接捉えている。
どこか擦りむいているかもしれない。
切っているかもしれない。
しかしそんな感覚は、冬の寒さの中では感じようがなかった。
(とはいえ)
逃げ回るのには、想像以上に手こずっていた。
「あの娘、相当ヤバい金に手を付けたのね」
真白は息を弾ませながら、背後から迫る怒声と足音の数に恨み言をこぼす。
追っ手の半グレの数が、事前の予想よりもはるかに多かったからだ。
数人が血眼になって追いかけてくるだけかと思いきや、路地を曲がるたびに別働隊が現れ、真白の行く手を塞ごうとしてくるのだ。
走っては出会い、引き返してはまた阻まれる。
そんな中、わざと赤いコートをチラつかせながら、真白は連中を適度に翻弄しながら、少しずつ目的地へと誘導していく。
そうして追っ手を多少引き剥がした先で、真白は不意に立ち止まった。
目的地である『蟻塚』の一号塔。
ビル群が違法建築によって無数に連結され、巨大な九龍城塞の如き様相を呈しているその場所は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
ここに至るまでの歓楽街には、酔っ払いや立ちんぼたちの騒がしい喧騒が溢れていたというのに、一号塔の周辺には誰一人として近づこうとしない。
まるで見えない境界線が引かれているように、すべての音がそこだけポッカリと抜け落ちていた。
だが、その静寂以上に真白の目を引いたのは、異様な『明かり』だった。
薄暗い周辺とは対照的に、入り口からエレベーターへと続く通路だけが煌々と照らされ、見上げれば上層階は全面に電気がついて輝いている。
それはまるで、そこに住むものだけが特別であるかのような演出に思えた。
ゲートタウンの住人たちが近寄ろうとしない『何か』が、このビルの上にはある。
だがそれが具体的に何を意味しているのか、これまでゲートタウンの闇に触れてこなかった真白に知る由もなかった。
「……うまく誘導できたな」
一号塔の入り口に続く暗がりから、不意に低い声が響いた。
闇に同化するように立っていた片桐が、無表情のまま真白の前に姿を現す。
「コートとウィッグを。ここから先は俺がやる」
片桐はそれだけ言うと、事もなげに自分の履いていた革靴を脱ぎ、素足になった真白の前に差し出した。
「これを。血が滲んでいる」
「……ほんとだ、気付かなかった」
靴を受け取り、足の裏をストッキング越しに触る。
思ったよりも傷は多く、出血は派手だった。
「でも、おじさんはどうするのよ?」
だが足裏の傷など気にすることもない。
帰って消毒液でも振りかけてしまえば、それで終わりの話だ。
「俺の分は、追っ手の誰かに分けてもらうよ」
淡々と言い、早くよこせと言わんばかりに指を動かす片桐に、真白は呆気にとられた。
言われるがままにブカブカの男靴に足を入れながら、赤いコートと茶髪のウィッグを彼に渡す。
片桐はそれを無言で受け取ると、躊躇なくコートを羽織り、ウィッグを被った。
大人の男が、少し肩幅の窮屈な赤いレディースコートを着て、茶髪のウィッグを被っている。
そのあまりにシュールな出立ちに、真白は目をまん丸にした。
だが、片桐の横顔を見た瞬間、口に出しかけた言葉がスッと消えた。
彼の表情には照れも、冗談の気配も微塵もない。
ただひたすらに真剣で、目的を達する為の合理性だけがそこにあった。
真白は悟った。
街の住人が本能で避けるこの不気味な建物の奥には、自分たちが入るべきではない何かがあるということを、この男は初めから知っていたのだ。
だからこそ、一番危険な役目を自分が被るために、最初からここで待っていた。
「あの上には……誰が、何があるの?」
煌々と輝く上層階を見上げながら、真白は恐る恐る尋ねた。
赤いコートを着た片桐は、見上げることもなく無表情に答える。
「知らないし、知ろうとも思わないな」
コートの肩の位置を合わせながら、片桐は続ける。
「正体を知ろうと手を伸ばして、何かを掴めると思うのはただの思い上がりだ。実際には――伸ばした手を逆に掴まれ、暗闇へと引きずり込まれる。あの明かりからは、そういう気配を感じる」
真白が息を呑んだ直後、後方から荒々しい足音が近づいてきた。
「ここから先は俺の仕事だ。お前は暗がりに身を隠せ」
片桐は咄嗟に真白を死角へと押し込むと、赤いコートの裾を翻し、自ら煌々と照らされる一号塔の入り口へと歩み出た。
直後、角を曲がってきた半グレたちの怒声が響く。
「いたぞ! あの赤いコートだ!」
「絶対に逃がすな! あの金を取り返せなきゃ、俺たちが海に沈められんだよ!!」
後がない半グレたちの切迫した怒声。
彼らは一号塔の異様な明るさと静寂に一瞬だけ顔を強張らせたが、命に直結する大金への執着がその恐怖を塗り潰し、赤い背中を血眼で追って突っ込んでくる。
片桐は無言のまま素足で、一号塔の奥深くへと駆け出していった。
真白はブカブカの革靴の中で足指を曲げながら、光の中へ消えていくシュールな赤い後ろ姿を、ただ黙って見送ることしかできなかった。




