第3話
「……すごい歩きにくい。よくこんなの履いて走れるわね」
真白は不満げに呟きながら、二歩三歩と歩いてみる。
足元には、先ほどまで依頼人の女が履いていたブランド物のヒール。
真白は長い黒髪をヘアネットでタイトにまとめ上げながら、何度か足首を回して窮屈な靴の感覚を確かめている。
対する女は、真白が貸し出したグレーのスウェットに着替えていた。
片桐がデスクの上に古びたキャップを置くと、女は無造作に被って茶色いウェーブヘアを押し込んで隠す。
「街を出た後のツテはあるのか?」
片桐の問いに、女はキャップの鍔を上げながら頷いた。
「そうね。しばらくの間は昔の男のところにでも転がり込むわ」
それは大丈夫なのか、という片桐の疑問に、女は屈託のない笑顔で続ける。
「別れた原因がお金だったからね。これだけ持っていったら、もしかしたら私たちまたうまくやれるんじゃないかと思って」
その青く、幼い返答に、片桐はそれ以上言葉を続けることはしなかった。
出立の準備が進む中、ガレージのシャッター横の扉を開けて有坂が息を切らせて入ってきた。
その手にはクシャクシャの紙袋が握られている。
有坂は人目につかない屋根や高所を跳び回り、故買屋まで走ってきたのだ。
彼の脚力であれば、最短時間で街を往復することができる。
ただし相当な緊張もあったせいで、いつも以上に息があがってしまっていた。
有坂は大きく息を吸い込みながら、紙袋を片桐に渡した。
片桐は中から茶色いウェーブのかかったウィッグを取り出し、真白に手渡す。
「へぇ、こんな夜中なのになんでも手に入るのね」
「相応の金を払えば、な」
片桐から受け取ったウィッグの匂いを嗅いで、真白は微かに顔をしかめたが、文句を言うことなくウィッグを頭に被り、位置を微調整した。
それを少し離れた場所で見ながら、息を整えている有坂は静かに自問自答していた。
女が店の金庫から売上を盗み出した、泥棒であることは事実だ。
かつての自分であれば、その罪を責め、手を貸すことなどしなかっただろう。
だがまだ日が浅いとはいえ、このゲートタウンで生きてきて分かってきたことがある。
ここでは誰もがそれぞれの信念と強かさを持って生き抜いているのだ。
綺麗事や自分本位の正義感だけでは測れない、独自のルールが適用される。
それがこの街、ゲートタウンだ。
それでも、一つの懸念が拭えなかった。
「片桐さん」
有坂は声を潜めて尋ねた。
「あの人が嘘をついているわけじゃないのは分かります。でも、これが『弥生の理』の残党が仕掛けた罠だという可能性はありませんか? 僕たちを誘き出すために、彼女を利用しているとか……」
有坂の警戒心に対し、片桐は首を横に振った。
「あいつらがまだこの街に留まっているとしても、こんな状況を作り出せるだけの金なんて、もう持ってはいないよ」
片桐の、微塵も不安を含まない言葉に、有坂は小さく息を吐いて納得した。
(……純粋な男だ)
片桐は自ら教団の残党を処理していた為に、これが奴らの仕業でないことは確信が持てている。
だがそれを知らない有坂からすれば「でも」や「なぜ」といった言葉が続いてもおかしくはない。
例えば依頼を受けるにしてもよく調べもせずにその場で引き受けることの良し悪しについて、まだまだ言葉を交わすことはできるはずだ。
「有坂くん」
片桐はそんな自分の思考を一旦横に起き、静かに声をかける。
「君は人目につかない裏道を通って、彼女を街の外へ逃がしてほしい」
「分かりました。任せてください」
有坂は力強く頷いた。
日頃から故買屋へのお使いで走り回っている有坂には、もうゲートタウンの複雑な地理が頭に入っている。
自分の持つ異能力を上手く使えば、逃走を十分に手助けできるという自負があった。
「真白、連中の目を引きつけたまま、蟻塚の一号塔の入り口まで誘導してほしい」
片桐の短い指示に、真白は首を回しながら楽しそうに親指を立てた。
彼女はこの街の地理に詳しく、思い切りもある。
細かく指示を出すよりも、ある程度任せたほうが上手くいくだろう。
「だが一つだけ。絶対に自分から戦おうとはするなよ」
そこだけが不安だった。
勝ち気な彼女が、何をきっかけにして逃走から闘争へ変わるか分からない。
「逃げるだけで、いいからな」
以前の手合わせの経験から、真白が一般の半グレ相手に後れを取ることはないと片桐は分かっている。
だが、だからこそ、今回の件では逃げることだけに専念してもらわなければならないのだ。
「分かってるわよ」
うるさいなぁ、と真白がウィッグを馴染ませ、女のコートを羽織った直後だった。
彼女の立ち方、重心の置き方、そして纏う空気が、一瞬にして『水商売の女の気怠さと怯え』へと変化した。
「どう?上手でしょ?」
話し方も変わった真白は、その笑い方すら『水商売の女』のそれだった。
長年『弥生の理』の中で、教団員として自分を演じてきた真白にとって、これも一つの特技のようなものなのだ。
こうした完璧な変装で追っ手を欺くことは、しばらく家の中に閉じ籠もっていた真白にとって何よりの鬱憤晴らしになった。
「じゃあね、ちょっと行ってくるわ」
ヒールの踵を不器用に、しかし計算された足取りで鳴らしながら、真白が夜の街へと溶けていく。
そのすぐ後に、有坂も女を連れて反対側の裏道へと姿を消した。
ガレージに一人残された片桐は、静かに暗闇を見据える。
「心配ないとは思うが、こういうのは久しぶりすぎて落ち着かないな」
そう独りごちながらコートを羽織ると、片桐は扉を開けてどこかへと歩いていった。




