第2話
「――本っ当に怖かったんです。ノルマをこなせないなら海に沈めるぞって……!」
油とコーヒー、そして埃の匂い。
それらを押しのけて、ひときわ強く香水の匂いが漂う。
ゲートタウンの片隅にある「REPAIR」のガレージに、女のひどく怯えた声が響いていた。
来客用に置かれた革のソファで、赤いコートを着た女は両腕で胸元を庇うように抱え込み、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら肩を震わせている。
真白はソファで女の隣に座り、その背中を優しくさすりながら、鈴を鳴らすような静かで慈愛に満ちた声をかけていた。
「ひどい話ですね。でも、もう大丈夫ですよ。私たちが必ず、あなたを守りますから」
その表情は、聖女さながらだった。
理不尽な暴力にさらされた弱者に寄り添い、共に悲しみ、怒る。その完璧な『表の顔』に嘘の気配は微塵もない。
女もまた、真白のその声にすがるように、しゃくりあげながら言葉を紡ぐ。
「なんか、トウカツ?に行けなくなったって、急にお客さんが増えだして、お店は毎日忙しかったんです。でも、だんだんオーナー達が厳しくなり始めて……ノルマが達成できない日は、よくわからない罰金までつけられて……もう、逃げるしかなかったんです。だから私、着の身着のままで……」
「あの……」
真白の完璧な演技と女の悲劇のヒロインぶりを、少し離れた場所で見ていた有坂が遠慮がちに声をかけた。
彼はガレージの隅の丸椅子に座ったまま、困ったように首を掻いている。
有坂の視線は、泣き崩れる女の顔ではなく、彼女の足元に向けられていた。
「……すごく綺麗なヒールを、履いてるんですね」
有坂の言葉の意図を理解できず、女が首をひねる。
「ブランド物のヒール。仕事道具にそこまでお金がかけられるなら、報酬自体は正当に払われてたんじゃないかなって思ったんです」
女の眉がピクリと動き、すすり泣く声が不自然に途切れる。
「それと、あなたが必死に掻き合わせているコートの胸元。涙をそのままにしてまで動かないなんて不自然ですよ。そこに何があるのかなって、少し気になりました」
有坂の静かで淡々とした指摘に、女は一瞬言葉に詰まったが、すぐにまた涙声を作った。
「これは……お店から逃げる時に、咄嗟に掴んだだけで……ブランドとか、よく分からないです。それに、この中には少しでもお金になればと思って、お店に置いてた私物の時計とかを……」
その後、女は大げさすぎるほどに泣いてみせた。
有坂の頭に一瞬、疑念が頭をもたげた。
しかし、かといってそのコートの中を見せろと言うのは行き過ぎた行為だという自覚はある。
「あ……そ、そうなんですね。すみません、疑うようなことを言って」
人のいい有坂は、そのもっともらしい言葉にあっさりと引き下がる。
だが、真白は違った。
彼女の慈愛に満ちた顔から、感情がスッと消え失せた。
「……せっかくいい人ぶろうとしたのにがっかり」
真白の豹変ぶりに、女は目を丸くした。
「これから逃げようとしてるのに、咄嗟に掴んだ?それにそのコートのシルエット、近くで見ると分厚い札束のようにしか見えないわ」
ガレージは一瞬で無音になった。
作業台の奥で、先程から無言でジャンク品の解体を続けていた片桐が、手にしていた精密ドライバーをコトリと置いて静かに口を開いた。
「蛭子の影響で、等活で仕事をできなくなったスクレイパーたちが、鬱憤を晴らすために歓楽街に金を落とし始めた。今の忙しさは、一時的な好景気でしかない。そして、それは長くは続かない。スクレイパーどもの金が底を突けば、その反動でこれまで以上に暇になるだろう」
「片桐さん、それっ!」
安易に「蛭子」の名前を口にしていいのか、と有坂は言いたいのだろう。
「大丈夫だ。彼女は何のことか、理解もできてないよ」
片桐は椅子から一歩も動かず、女の横顔を見据えたまま、静かに続ける。
「稼げる間に稼ぐのだと、君たちは重いノルマを課された。耳聡い奴らはこれが一過性のものだと気づき、あらかた稼ぎ終わったら、ゲートタウンの外に出る算段でも企てているんだろう」
だが目の前の女はそんな先のことなど考えてはいない。
考えられるほど、視野が広くない。
「だが君は上からの重圧に耐えられなくなった。だから店の金庫から売上を根こそぎ盗み出し、ここに逃げ込んだ。違うか?」
片桐の言葉を聞き、女の震えはピタリと止まった。
流れるままの涙はそのままに、作られたような顔で前を向く。
「ちょっと違うけど……なんか、悔しいわね」
女は赤いリップの塗られた唇を歪めた。
「人を騙すのには結構自信があったんだけどなぁ」
女はコートを押さえていた手を解き、中から札束をいくつも取り出して、自分の横に重ねた。
「もうさ、毎日毎日めんどくさかったのよ。私はただ飲んで喋ってお金をもらえたらそれで良かったのに、もっともっとって、あいつらキリがないの」
我慢の限界とでもいうように、女はコートのポケットから煙草を取り出して火をつける。
その様子を見て有坂が慌てて灰皿を持っていった。
「ありがと。ねぇ君、かわいいね。お客さんで来てたらサービスしてあげたのになぁ」
天井に向かって煙を吐く。
「もともとね、限界だったのよ。稼げるって言うからこんな街まで来たのに、客はしょぼいおっさんばっかり。それでも、緩く稼げてたから我慢して続けてたのに、急にあいつらやる気出し始めちゃってさ」
それはある意味でとても純粋な人間性だった。
図星を突かれて居直った女の厚かましさに興醒めし、あからさまに興味をなくした真白をよそに、片桐は僅かに口角を上げた。
ただ怯えてすがるだけの人間より、自分の命に値段をつけて強かに生き抜こうとする人間のほうが、ビジネスの相手としてはるかに信用できる。
そんな彼女の懐から出された分厚い札束から支払われる報酬は、『飴』代や、アビスに潜るための『支度金』として申し分ない額になるはずだ。
「いくら出せる?」
片桐の言葉に、女は指を三本立てた。
期待通りの金額に片桐は頷くと、ゆっくりと立ち上がり、壁に貼られている周辺の地図を剥がして机の上に広げた。
「さて、有坂くんに真白」
片桐としても彼らを居座らせる理由があるとはいえ、一人暮らしが三人暮らしともなれば、さまざまな部分で出費がかさむ。
しかも居候たちはそろって金を持っていないときている。
「不本意だが、今回は君達にも協力してもらう。案は、こうだ」
背に腹は代えられない。
生きていくには嫌でも金が必要になる。
戸籍上死んだことになっているが、巫女の儀式に乱入したことで生存していることを知られてしまったかもしれない有坂。
残党は処理した、とはいえ巫女の儀式を邪魔したことで狙われてしまっている真白。
危険な目に合わせたくはないが、それでも一人よりも三人の方が取れる手段は明確に増える。
過去、調律者としてチームを率いた片桐は、この泥臭い現状に、密かな充実感を見出していた。




