第1話
油と、煙草と、淹れたばかりのブラックコーヒーの匂い。
それが、これまでガレージを支配していた匂いだった。
そこにふと、洗剤の匂いが漂った。
「あー……退屈すぎて死にそうなんだけど」
片桐は作業台の定位置に座り、先日持ち込まれた古いフィルムカメラの底蓋を開けたまま、極小の部品と睨み合っていた。
ピンセットで慎重にシャッター幕の部品を組み込んでいく、僅かな金属音だけが響く。
「ねぇ、おじさん、聞いてる?律がついてきてくれないから、結局どこにも行けてないんだけど」
パイプ椅子にだらしなく寄りかかり、真白が天井に向かってぼやいた。
ここ数日、有坂によって外に出ることを禁じられた彼女の苛立ちはピークに達している。
「遠野さん、片桐さんの仕事の邪魔しちゃダメだって」
少し離れた場所で、折りたたみ机に積まれたガラクタの仕分けを手伝わされていた有坂が、肩をすくめながらたしなめる。
「うっさいわね。あんたがついてくるなら出かけていいって言われてるのに、念のため念のためって、いつまでもあたしを閉じ込めてさ」
「仕方ないでしょ。僕一人の時に何かあっても守ってあげられないんだから」
「あのねえ、あたしはそもそもあんたなんかに守ってもらわなくても大丈夫なの。だいたいあんな、守るったってその足、逃げることにしか使わないじゃん」
「それは……」
痛いところを突かれ、有坂が言葉に詰まる。
真白の言う通り、守る役を言い渡されている有坂は、異能力としての脚力を持っていても、それを相手に使用する覚悟はない。
二人の言い合いを背中で聞き流しながら、片桐は無言で手を動かし続ける。
「……でもな真白、お前は以前俺に負けただろ。誰が来ても勝てるわけじゃないなら、誰かと一緒に行動したほうがいい」
片桐が静かに告げると、真白は「おじさんみたいなの、そうそういないよ」と小さくため息をついた。
その時だった。
ガレージのシャッター横にある扉が、外から乱暴に叩かれた。
だがそれは、何でも屋「REPAIR」にとって別段珍しい音ではない。
むしろご丁寧に扉を叩いてくれる者なのであれば、そこに悪意などはない。
「有坂くん、モニターを確認してもらえるか」
片桐がドライバーを持ったまま静かに指示を出すと、有坂は慌てて立ち上がり、モニターへ向かおうとした。
だが、それよりも早く真白がパイプ椅子から立ち上がっていた。
「お客さんでしょ?私が開けるわ」
「ちょっ、遠野さん! 勝手に開けちゃ――!」
有坂の制止を聞かず、真白は扉の鍵を躊躇なく外した。
「……っ、助けて!」
転がり込むようにガレージへ雪崩れ込んできたのは、恐怖に震える若い女だった。
強烈な香水と、酒とタバコの匂いがガレージの空気を一瞬にして汚染する。
派手な赤いコートは所々が汚れ、肩で荒い息を繰り返している。見るからに、水商売の女だった。
「え、ええ、……!」
突然の闖入者に、有坂が情けない声を上げて後ずさる。
一方の片桐はといえば、作業台から一歩も動かず、手には精密ドライバーを握ったまま、ただ静かに女を観察しているだけだった。
観察をする、それは片桐にとっては当たり前の作業であったが、それを良しとしない存在がいることを失念していた。
(……こいつらじゃ駄目ね)
片や怯え、片や無表情で動かない男たち。
それが恐怖で震える女性にどんな影響を与えるのかに気付いていない男二人を一瞥し、真白は密かに呆れた。
(……やるか)
次の瞬間、真白の声音と纏う空気が一変した。
「……大丈夫ですか? もう安心ですよ」
先程までの勝気で無遠慮な響きは完全に消え去り、まるで鈴を鳴らすような、静かで慈愛に満ちた声。
教団の中でだけ見せる、彼女が作り上げた『表』の顔だ。
「お願い、匿って……! 店の連中に追われてるの。見つかったら、殺される……っ!」
「ええ、わかりました。まずは落ち着いて。さあ、こちらへ」
女は真白の腕にしがみつき、ボロボロと涙をこぼしながら懇願する。
真白は女を優しく抱き起こす完璧な演技を見せながら、ガレージの中央にあるソファへとゆっくり誘導した。
真白は瞬時に目つきを切り替え、有坂に飲み物を持ってくるように促す。
真白が女の警戒を解いている中、コーヒーを淹れながら有坂の目はずっと女を捉えていた。
(……少し、不自然だな)
追われて死に物狂いで逃げてきたはずの女の足元。
だがそこに履かれているヒールは、多少の泥を被ってはいるものの、どう見ても高級ブランド品だった。
さらに、女が着ている赤いコートの胸元。
不自然に膨らんだそのシルエットは、ただの衣服のシワではなく、明らかに何かを大量に隠し持っている形をしていた。
「……」
有坂の視線の先――コートの不自然な膨らみを、片桐もまた静かに確認していた。
有坂が差し出したマグカップを両手で握りしめ、女が震える唇を開く。
「最近、店を仕切ってる連中の様子がずっとおかしかったんです。ノルマや罰金が突然、払えないような額に引き上げられて……。少しでも逆らえば、どうなるか……っ」
女の言葉を聞きながら、片桐の中で散らばっていた情報が推測をもって結びついていく。
(……厄介なことになりそうだ)
突如現れた依頼人によって、これまで片桐一人だった「REPAIR」が三つのいびつな歯車を噛み合わせながら、静かに動き出そうとしていた。




