残党 最終話
片桐は帰路の前に冴木が営むクリニックへ立ち寄った。
「……済んだの?」
診察室の奥、カルテの整理をしていた冴木が顔を上げずに問う。
彼女は事前に「少し騒がしくなる」とだけ伝えられていたため、詳細は知らない。
だが片桐が部屋に入ってきた時に纏っていた硝煙と埃の臭いを嗅ぎ取りながらも、冴木は何も詮索しなかった。
「ああ。怪我はない」
「そう。ならいいわ」
それだけの言葉を交わして、片桐はクリニックを後にした。
服に染み付いた血や硝煙の痕跡は、冷たい夜風に晒した程度では容易に消えない。
それに比べて、あの10体の死体は蟻塚に住む者たちの手によって、明日のうちに綺麗に消えてしまうだろう。
静まり返った夜道を歩き、事務所兼自宅として使っているガレージに近づく。
ふいに、重いシャッターの向こう側から女性の荒れた声が響いてきた。
(……残党か?)
10人という数は確かに仕留めたが、それ以上いないという確証はない。
(俺の家を直接狙うか)
片桐は目を細め、コートのポケットにあるナイフへ静かに手を添えながら、音もなくシャッターを押し上げた。
だが、そこで行われていたのは危険な争いではなく、ひどく日常的で、ただただ騒がしい口論だった。
「だから平気だって! 帰ってきたら、おじさんに聞いてみようってば!」
「ダメだよ! そういうのは気軽に触れていいやつじゃないって、ほら、戻して……!」
作業台の傍らで、真白と有坂が揉めている。
真白の右手には、普段は伏せられているはずの写真立てが握られていた。
勝気な目を輝かせる真白に対し、有坂は及び腰になりながらも、なんとか必死に言葉だけで彼女を止めようとしている。
「……どうした?」
片桐が低く声をかけると、二人の視線が一斉にこちらへ向いた。
「あ、片桐さん……!」
「お帰り。ねえ、この人だれ? おじさんの彼女?」
無遠慮に写真立てを突き出してくる真白を見て、有坂が「ああっ」と血の気を引かせた。
それは長谷川優子との写真だった。
片桐は無言のままコートを脱ぎ、洗面所へと向かう。
すれ違いざま、有坂の視線は片桐のコートの裾に付着した微細な埃や汚れを捉え、わずかに漂う火薬の匂いを嗅ぎとった。
それが何を意味するのかまでは辿り着けていないが、片桐が今日、外で『危険な何か』をしてきたのだろうということは予想できた。
だが、今の有坂にとってそれ以上に恐ろしいのは、片桐の地雷を躊躇いなく踏み抜いた真白の暴挙だった。
片桐は真白の手から静かに写真を取り上げると、再び元の場所へ、伏せた状態で置いた。
「昔の彼女だ。今はもういない」
凪のような声。
その表情のない声に、真白もさすがに自分が踏み越えてはいけない一線を越えたことを悟ったらしかった。
ガレージの空気が一瞬にして張り詰める。
「その……悪かったわよ」
バツが悪そうに視線を逸らす真白に、片桐は蛇口の水を捻りながら短く返した。
「気にするな。本当に触れられたくないなら、こんな所に出しておかないさ」
タオルで手と顔を拭いながら、片桐は作業台の定位置に腰を下ろした。
手元に引き寄せたのは、先日持ち込まれた古いフィルムカメラ。
シャッター幕が壊れてしまったジャンク品だ。
「それより、例の残党の件だ」
片桐が話題を切り替えると、真白がハッと顔を上げた。
「昔なじみの教団の男に残党どもの話をした。以前日和を預けた男だ。すぐに動いてくれたが……何人かは逃げ出したらしい」
精密ドライバーの先端をカメラの底蓋に滑り込ませながら、片桐はあらかじめ用意していた完璧な嘘を吐く。
「しばらくは、出歩く際に有坂くんについていってもらえ。数日様子を見て、問題がなければ一人で出歩いてもいい。奴らも、いつまでもこの街に留まるような真似はしないだろうからな」
「……そう。じゃあ数日経ったら、私は私の用事に戻らせてもらうわ」
「その件だが」
小さなネジを一つ外し、片桐はチラリと真白を見上げた。
「何にしても、お前が一人で協力者を探すより、俺のルートを使った方が早い。ここでおとなしくしているなら、お前の依頼についても考えてやる。だから、準備ができるまではここにいろ。今回みたいに、勝手に動いて余計なトラブルを起こされる方が面倒だ」
それは、彼女をアビスへ向かわせないために用意した嘘だった。
実際には、残党は既にこの手で全て皆殺しにしてきた。
だが、教団内部の事情と『日和』という確かな固有名詞を出され、さらに自らの目的への近道を提示されたことで、真白も疑う余地を持たないだろう。
かつての仲間である「斑さん」の娘を、自ら死地へ送り出すような真似だけはしたくなかった。
「ううん。……おじさんがそう言うなら、わかったわよ」
真白は若干不満げな態度であったが、それ以上の反論は飲み込んだ。
片桐は再び、意識をカメラの極小の部品へと落とし込む。
(……おじさん?)
真白からの呼び名に違和感を覚えながら、不器用で歪んだ嘘に守られたガレージの中で、片桐の鳴らす金属が擦れる小さな音だけが響き始めた。




