第13話
暗く重い空気が淀む四号塔の階段を、乱れた足音が上っていく。
ひどく息を切らしているその男は、最上階にいた男たちと同じ「弥生の理」のローブを纏っていた。
だが、その残党の中にあって、彼の立場はただの使い走りでしかなかった。
日頃から面倒事はすべて押し付けられ、今回も危険な場面に向かっているというのに、先に階段を上がらされている。
「おい、遅いぞ。さっさと行け」
背後から響く、余裕めいた重い足音。
このグループの中では一番の武闘派である男の声に、彼は苛立ちを飲み込んで足を動かす。
(なんで俺ばっかり、いつもこんな目に……!)
つい先日も大量の弁当を自分一人に持たせ、この男は電話をしているだけだった。
鉄錆とカビの匂いが鼻をつく中、彼の脳内では鬱屈とした不満が渦巻いている。
後ろを歩く男の携帯端末越しに聞こえていた悲鳴や銃声は、最上階に近づいても完全に途絶えていた。
気味の悪いほどの静寂が、上のフロアから降りてきている。
だが、彼の心を占めていたのは警戒心よりも、歪んだ野心だった。
儀式が潰され、目立つ関係者は粛清された。
残された者たちで原因となった女への復讐を果たした後には、再び金儲けのための活動を再開する予定だった。
だが、どうやら他のメンバーは何者かにやられてしまったらしい。
ならばその侵入者を倒せば、自分は少なくともナンバー2の座に収まることができる。
これまで見下されることしかなかった自分が、ようやく人の上に立つ日が来たのだ。
(そうだ。そうしたら俺だって――)
最上階の入り口を抜け、暗闇のフロアへ足を踏み入れた瞬間。
彼の視界の端、積み上げられた粗大ゴミの陰から何かが無音で伸びてきた。
それが『手』であると認識するより早く、彼の顎と後頭部が強烈な力で対角線に捻り上げられる。
ボキッ、という自身の頸椎が砕ける鈍い音を遠くに聞きながら、彼の野心は永遠の闇へと沈んだ。
事切れた男の体を、片桐は無造作に床へ横たえた。
ただ相手の命を奪うためだけの、最短距離の処理。
視線を上げると、階段を上ってきたばかりのもう一人の男が、足元に転がった死体を見下ろしながらピタリと足を止めている。
男は暗闇の中で目を細め、少し前までとは全く違う景色となったフロアを見渡した。
その場にいた手駒たちの気配が、今は完全に途絶えていることを悟る。
「……何者だ」
男が口を開く。
その声には、努めて感情を平坦に保とうとする、不自然な響きがあった。
「こんな所まで来て、全員を殺して回るということは……事情は知っているようだ」
「『遠野真白』を攫おうとしたな」
片桐の短い言葉。
その固有名詞を聞いた瞬間、男の顔には確信の色が浮かんだ。
「……なるほど。お前はあの女に協力して、儀式をぶち壊したイレギュラーの一人というわけだ」
男は再び、暗闇を見渡し、点在するかつての仲間たちに視線を巡らせた。
これだけの数を制圧しているというのに、目の前の人物は傷一つ負っていない。
「……まさか大嵜さんを殺ったのも、お前なのか?」
片桐は答えない。
ただ静かに、男の動作を見逃すまいと立ち尽くしている。
その沈黙を肯定と受け取った男の立ち姿は、分かり易すぎるほどに、オオサキのそれを模倣し始めた。
両手をダラリと下げ、感情の波を消そうとする静の姿勢。
だが、その内側から漏れ出す自己顕示欲と、強者に対する歪んだ対抗心が、隠しきれない熱となって暗闇に発散されていた。
男が一歩、前へ出る。
床に転がる男の死体を、躊躇うことなく革靴で踏み越えた。
「オレはあの人の一番近くにいた。あの人が完成させた力を、誰よりも理解している」
男の口調が、徐々に熱を帯びていく。
「オレはもうあの人を超えることができないんだと思っていた……だが、お前を殺せばオレの力は証明される」
(……間の抜けた話だ)
暗闇に溶け込んだ片桐の瞳が、男の虚勢を値踏みした。
「オオサキ、か」
片桐の声が、静まり返ったフロアに冷ややかに響いた。
「よく鍛えられた鷹爪功だった。だが、見たところお前は、彼にその『指先』すら届いていなさそうだ」
かつて片桐の横腹と背中の肉を抉った、あの凶悪な指先の力。
それを模倣しようとする目の前の男の貫手を、片桐はわざと大げさに嘲笑してみせた。
「……ッ、てめぇ!」
片桐の放った一言が、狙い通りに男の脆い自尊心をいとも容易く粉砕する。
平坦を装っていた仮面が剥がれ落ち、激昂に歪んだ顔が暗闇に浮かび上がった。
「オレはもうあの人よりもつえぇ! 死人にはもう、誰も殺せねぇんだよ!」
男が咆哮とともに地を蹴っている。
オオサキを模倣したというその動きは、素人目には速く、そして鋭く見えたことだろう。
怒りに任せた貫手の連打が空気を裂き、片桐の頭部を狙って殺到する。
だが、片桐にとってそれは、感情に振り回されて手札を晒しただけの、単調な動きに過ぎなかった。
片桐は半歩だけ後退し、男の突きを紙一重で躱していく。
「シッ!」
大振りの一撃が、片桐がいた場所を掠めて空を切る。
直後、片桐が相手の足へと加えた僅かな力が、男の体勢を大きく泳がせ、決定的な隙を生んだ。
その瞬間、片桐はコートのポケットへ手を入れる。
まさに一瞬。
無駄のない動作で取り出された、折りたたみナイフの刃。
「なっ――」
男が驚愕に目を見開くよりも早く、片桐は死角へと滑り込み、男の踏み込んだ右太腿の筋を逆手で深く切り裂いた。
「ぐうぅ!」
筋繊維を断ち切られた男が、バランスを崩して無様に床へ這いつくばる。
「て、てめぇ……! 武器なんか使いやがって、卑怯だぞ!」
痛みに顔を歪めながら、男が唾を飛ばして叫んでいる。
(……お前は喋りすぎなんだよ)
オオサキとの関係を晒し、同じ構えを取ることは自身の手札を曝け出していることに他ならない。
片桐はゆっくりと歩み寄り、冷たい眼差しで男を見下ろした。
「素手相手に武器を使うのは嫌なんだが……肉を抉られるのは、それ以上に嫌なんでな」
男が反論しようと口を開いた瞬間、片桐の靴が男の顎を容赦なく打ち抜いた。
脳髄を激しく揺らされた男は、一瞬にして意識を刈り取られ、糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちた。




