第9話
複雑に増改築を繰り返した九龍城のような廃ビル群。
その一角にある薄暗いクリニックで、白衣を着た冴木はカルテから目を離すことなくあっさりと首を振った。
「いいえ、うちにはそんな男は来てないわよ」
顔面を潰されたスクレイパー崩れという特徴に、冴木は心当たりがないらしい。
「でも、怪我の具合からして街の外まで出る余裕はないはずよね。なら、ゲートタウン内の個人医を頼るしかないのは確実ね。他の連中に聞いてみてあげる」
「少し待ってて」と、冴木が端末を操作し始めたのを見て、片桐は「煙草を吸ってくる」と短く告げ、クリニックの外のくすんだ通路に出た。
冴木の机の上の灰皿は吸い殻でいっぱいだと言うのに、あの場所は「禁煙」なのだ。
片桐は湿気た空気を肺に吸い込み、煙草に火をつけた。
紫煙が薄暗い蛍光灯の下へ溶けていくのを眺めながら、一本を吸い終えて中へ戻ると、冴木はちょうど通話を切ったところだった。
「何人か確認したけれど、繋がったところには誰も来ていなかったわ。今、一人だけ連絡がつかなかった奴からの折り返し待ちよ」
冴木はデスクに置かれたコーヒーカップを手に取り、少しだけ目を細めて片桐を見た。
「そういえば、あの若い彼とはうまくやってるの?」
「まぁな。……それに、困ったことに居候がまた一人増えたよ」
冴木は少し驚いたように目を丸くした。
「珍しいどころの話じゃないわね」
「俺が望んで増えたわけじゃない。成り行きで一人抱え込んだだけだ」
片桐が微かに眉間を寄せてため息をつくと、冴木は小さく笑い、コーヒーに口をつけた。
「でも、いい傾向じゃない。ようやく、あなたの時間も動き出したのかしら」
「勘弁してくれ」
片桐が苦笑混じりに吐き捨てると、冴木はそれ以上踏み込んでこなかった。
だが、その瞳には微かな安堵が滲んでいた。
冴木は、七年前の焦熱惨禍で片桐が失った恋人――長谷川優子の友人であり、当時の片桐のチームをよく知る数少ない人物だ。
仲間を失い、ダイバーを辞め、それでもこの街で何でも屋として生き続けている彼を、冴木はずっと危惧していたのだ。
「……まぁ、賑やかになるのはいいことよ」
冴木が静かにそう呟いた時、デスクの端末が震えた。
彼女が画面をタップし、ハンズフリーに切り替えると、ノイズ混じりのくぐもった男の声が響いた。
『おお冴木、悪い悪い。今手が空いた。どうした?』
「顔に酷い傷を負った男、そっちに行ってないかしら」
冴木の問いに、電話口の男は少し間を置いて答えた。
『……ああ、そいつなら昨日来たよ』
「どこの、誰だ?」
片桐が横から口を挟むと、男は明らかに警戒するような沈黙を落とした。
『……おいおい冴木、そういうのはルール違反じゃないか? 悪いが、こっちにも守秘義務ってのがあるんだ。個人情報は教えられんよ』
「そう。仕方ないわね」
冴木は端末を顔に近づけると、片桐には聞き取れないほどの声で、マイクに向かって何かを短く囁いた。
その瞬間、スピーカーの向こうからヒュッと息を呑む音が聞こえた。
『お前……それも、ルール違反』
「どうするの?」
『わかったよ。言う、言うからそれは誰にも言うなよ……』
弱みを握られているらしい男は、情けない声で早口にまくしたてた。
『そいつなら『この』ビルの、二階に住んでる。これくらいなら守秘義務も守られてるだろ』
「どうかしらね。でもありがと。助かったわ」
冴木は悪びれる様子もなく通話を切った。
いったい同業者の何を知っていたのか、片桐は気になりつつもそれに触れることはしなかった。
「はいこれ、あいつのクリニックが入ってるビルの住所よ」
「すまない。助かった」
「無茶しないでよ」と、背中越しにかけられた冴木の言葉に手を上げて応え、片桐はクリニックを後にした。
教えられた住所に建つ古びたビル。
クリニックが入っている割に清潔感のない場所だった。
足音を押さえながら、階段を上る。
住んでいる、というよりも住み着いているというような状態の、
錆びたトタンで補強された室内には鼻筋をギプスで固定され、顔面に分厚いガーゼを貼られた男が一人、壁に寄りかかって虚ろな目をしていた。
片桐は早足で近づくと、懐から修理を終えたばかりの年代物の銃を取り出して撃鉄を起こした。
「なっ、何だよお前……!?」
男が弾かれたように顔を上げた。
次の瞬間、片桐は男の胸ぐらを掴み上げ、壁に強く押し付けると同時に、治療を終えたばかりの顔面に冷たい銃口をコツリと押し当てた。
「あ、ああ……! いきなり何すんだよ!」
「動くな」
温度のない片桐の瞳に見下ろされ、男は恐怖でガチガチと歯の根を鳴らした。
「女を攫おうとしたな。誰に雇われた?」
「し、知らねぇ! 何の話か分かんねぇな……!」
片桐は銃口を更に強く押し付けた。
男の喉からひきつった悲鳴が漏れた。
「教えなければお前を殺して、そいつらも全員殺す」
淡々とした口調とは裏腹に、その言葉には本気の殺意が込められていた。
「教えてくれれば死ぬのはそいつらだけだ。どのみち、報酬を手に入れることはできないが……選べ」
片桐が引き金に指をかけると、男は堪えきれずに叫んだ。
「わ、わかった! 言うよ! 『蟻塚』だ! あそこの四号塔のてっぺんあたりにあいつらは隠れてる!」
「人数は」
「多分、九人……いや、十、十人だよ! なぁいいだろ! もう話せることはねぇよ!」
十分だった。
片桐は男を地面に突き飛ばすと、銃の撃鉄を戻して懐にしまった。
男は顔面の痛みも忘れたように這いつくばり、無様に逃げ去っていった。
雇い主がいるのは、冴木のクリニックがあるあの巨大な廃ビル群。
通称『蟻塚』。
結局、元の場所へ戻ることになるらしい。
だが、その中の四号塔の上層階という、具体的な場所が特定できただけでも上出来だった。
片桐はコートの襟を立てると、冷たい風の吹く旧市街地へと向かって、再び歩みを進めた。




