第8話
真白が住み着いてから二日が経過した。
彼女は有坂と同じく、ガレージの奥にある居住空間の二階の一室をあてがわれていたが、すでにすっかり自分の家のようにくつろいでいた。
「あー、このコーヒーあんまり好きじゃないのよね。あたしもう少し深煎りの方が好きなの」
事務所のソファを堂々と占領し、勝手に戸棚から出したマグカップを片手に、真白が不満げな声を上げた。
その横で、有坂が同じ居候でもこうも違うのかと驚きの表情を浮かべていた。
彼女のこの図太さは、ある意味ではなるべくしてなったものなのかもしれないと、片桐は内心で「斑さん」を思い出していた。
あの男も豪快で図太く、若いダイバー達に慕われる、そんな人間だった。
家の中を好き勝手されるのはいい気分ではないが、それでもこうして大人しく事務所の敷地内に収まってくれている分には都合がよかった。
片桐は磨き終えた年代物の銃のパーツを組み上げ、無造作に机の上に置いた。
「こいつを届けてくる」
唐突な言葉に、有坂と真白が同時に顔を上げた。
「あ、それなら僕が行きますよ」
「どこに?あたしも行きたい」
大人しくしていなければいけない空気に、二人とも飽きてきたのだろう。
しかし立ち上がろうとした真白を、片桐は片手を上げて制した。
「仕事だ。邪魔をするなと、言っておいたろ?」
片桐は壁に掛けてあったコートを羽織り、有坂へ視線を向けた。
「有坂くん、俺が戻るまで真白が外に出ないように見ていてくれ」
「なによそれ、まるで監禁されてるみたいじゃない」
「そうなったのは誰のせいだ?」
有無を言わせぬ片桐の低い声の圧に、真白はわずかに苛立ちを覚え、それでも反論を飲み込んで口を噤んだ。
有坂が何かを察したように、「分かりました」と静かに頷くのを確認すると、片桐はそれ以上語ることなく、外へと足を踏み出した。
片桐にはやらなければならないことがある。
教団の残党が真白を探しているというのなら、彼らを見つけ出し排除しなければならない。
この二日間、真白が外に出ていないことで、一度失敗した残党どもは血眼になってこの街を探っているはずだ。
そうなれば必ずどこかに痕跡が残る。
時間が経てば薄れてしまうそれらの痕跡を辿り、隠れている場所を割り出すのだ。
泥濘む路地を抜け、片桐は定食屋『徳』の重い引き戸を開けた。
昼時を少し過ぎているというのに、店内は相変わらずスクレイパーや労働者たちの熱気と、焦げた油の匂いが充満していた。
「いらっしゃい……お、片桐か」
奥の厨房で中華鍋を振るっていたトクさんが、首に巻いたタオルで汗を拭いながら声をかけてきた。
「今日はあの若いのは一緒じゃないのか」
「有坂くんなら留守番だよ」
片桐は空いているカウンターの隅に腰を下ろし、いつもの定食を頼んだ。
ほどなくして目の前にドンと置かれた盆には、頼んでいない煮物の小鉢が一つ、当たり前のように添えられている。
「最近、少し顔色が悪いな。ちゃんと食っとけよ」
ぶっきらぼうなトクさんの言葉に、片桐は小さく息を吐き、「ありがとう」とだけ返して割り箸を割った。
一攫千金を夢見てアビスの縁に集まった人間たちの多くは、命を落とすか、絶望して街を去っていく。
だが、トクさんのようにこの街に根を下ろし、ささやかな日常の拠り所となっている者もいる。
片桐にとって、ここは息継ぎができる数少ない場所だった。
だが、今日の目的は休息ではない。
「なぁ、トクさん」
片桐は煮物の小鉢に箸を伸ばしながら、周囲の喧騒に紛れさせるように声を落とした。
「ここ数日、見慣れない連中は来なかったか」
トクさんは布巾でカウンターを拭きながら、怪訝そうに眉をひそめた。
「そんな奴は珍しくもないが……いや、でも昨日弁当を十個ばかりまとめて買っていった奴がいやがったな」
片桐の箸が止まる。
「まぁそれ自体も別に珍しくはないんだがな。ただ買っていったその男が、どうにもこの街の人間ぽくなくてな。色白の、気弱そうな若い男だったよ」
片桐は肉野菜炒めを黙々と口に運び、ゆっくりと咀嚼してから短い問いを挟んだ。
「……十人分のお使いを、その気弱そうな男が一人で?」
トクさんは思い出し笑いをするように口角を上げる。
「いや、来たのは二人だが、一人で十個の弁当を持たされてよ……フラフラしながら帰っていったぜ」
片桐は白米をかき込み、コップの冷たい水で喉を潤す。
「もう一人の男は、どんな様子だった」
片桐の問いに、トクさんはしばらく思い出そうと唸る。
「ああ、そういえば電話しながら怒ってたな。さっさと病院にいけとかなんとか。あとは特に何もねぇよ」
探ってみる価値はあった。
もしかしたらその二人は真白が路地裏で返り討ちにしたスクレイパー崩れを雇っていた、教団の残党なのかもしれないからだ。
十人規模で潜み、まとめて食料を調達しているということは、この街のどこかに拠点を構えているということになる。
片桐は箸を止めず、最後に残った野菜を口に入れながら、視線だけをトクさんに向けた。
「そいつらがその後どこに行ったかは……」
「いやぁ、そこまでは知らねぇよ」
だよな、と片桐は頷いた。
だが顔を怪我したスクレイパー崩れの方なら足取りを追えるかもしれない。
そんな奴らが駆け込める場所は限られているからだ。
その一つは、複雑に増改築を繰り返した廃ビル群の奥底にもあった。
「もしまた来たら連絡してやるよ。探してるんだろ?」
片桐は静かに箸を置き、立ち上がった。
「ありがとう。頼むよ」
ごちそうさま、と片桐は代金を伝票に添えてカウンターに置いた。
「あんまり……無茶はすんなよ、片桐」
背中越しにかけられたトクさんの声は、少しだけ心配そうな響きを帯びていた。
片桐は振り返らずに軽く手を上げ、再び街へと繰り出した。
向かう先は、冴木の地下クリニック。
真白によって顔面を地面に叩きつけられた男が、立ち寄ったかもしれない場所だった。




