第7話
「ちょっと、聞いてるの?」
真白の苛立った声が、薄暗いガレージに響いた。
手にしたコーヒーカップの縁を見つめたまま、片桐はゆっくりと瞬きをした。
「あ、ああ。すまない」
「すまないじゃないわよ。もう一回初めから説明しなきゃいけないわけ?」
濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、真白が不満げに片桐を睨みつけ、その横では有坂が苦笑交じりに頭を掻いていた。
片桐の意識は、先ほどからずっと一つの情報に縛り付けられていた。
『彼女の父親は、斑さんだよ』
六條から聞かされたその言葉が、耳の奥で何度も繰り返されていた。
遠野真白。
目の前で自分を睨みつけているこの勝気な少女が、かつて仲間であった男の血を引いている。
にわかには信じがたい事実だったが、否定できるほど「斑さん」のことを深く知っているわけでもない。
それに、六條の情報の正確さは片桐自身がよく知っている。
やはり、疑う余地のない事実なのだろう。
「……もう一度、頼む。教団がどうしたって?」
片桐はカップを机に置き、意識を現実へと引き戻した。
真白は呆れたように息を吐くと、路地裏での顛末を再び語り始めた。
情報を持っていると嘘をついた男に誘い込まれたこと。
その男は巫女の儀式を行っていた教団の残党に雇われていたこと。
そして、彼らが自分たちのシノギを潰した原因である『遠野真白』という存在を執拗に追っていること。
六條の情報が正確であることを裏付けるように、真白からの話は既知のものであった。
有坂の補足を交えながら、事態の輪郭が明確になっていった。
「というわけで、あたしはもうアパートには戻れない。あいつら、あたしの顔も名前も知ってるんだから、危ないでしょ」
真白はタオルを首にかけ、腕を組んで片桐を真っ直ぐに見据えた。
「だから、しばらくここに置かせてよ」
それは、片桐にとって完全に想定外、というわけではなかった。
彼女の性格からして、大人しくこの街から出ていくという選択肢は取らないだろう。
だが、本来の片桐であれば、こんな厄介事は即座に切り捨てていたはずだ。
真白の感情など気にすることもなく、「この街から出ていけ」と、ただそれだけを伝えただろう。
自分は保護者でもなければ、慈善事業をやっているわけでもない。
それに、教団の残党という明確な脅威が伴うのであれば、なおさら関わるべきではないのだ。
「……」
だが、片桐は口を閉ざしたまま、真白の顔を静かに観察した。
以前、彼女に父親のことを尋ねた時の会話が脳裏をよぎった。
彼女は自分の父親を『遠野誠一』という名で呼んだ。
それはごく普通の、優しい父親だったと。
あの時、片桐は『焦熱での未帰還』という言葉から、偽名を使っていたかつての仲間、焦熱惨禍で死んだ『斑さん』を連想し、その特徴を並べて確認した。
だが、彼女の反応は「そんな特徴的な人ならもっと覚えてる」という冷めたものだった。
どうやら真白の中ではまだ、『未帰還の原因となった焦熱での作戦』と、片桐が唯一生き残った『焦熱惨禍』という二つの出来事が、一本の線で繋がっていないのだ。
ここで「お前の探している父親は斑さんだ」と事実を突きつけることは簡単だった。
だが、そうすれば彼女の脳内で点と点が結びつき、「唯一片桐だけが生き残った焦熱惨禍で父親は死んだ」という決定的な確信に変わる。
そうなると間違いなく彼女は、父親の最期の痕跡を求めて、焦熱惨禍の中心――オリジンである『軻遇突智』の領域へと向かおうとするだろう。
それは避けようのない死を意味する。
ならば、あの時の会話で生じた認識のズレはあえて放置し、このまま修正しないほうがいい。
彼女にとって父親は遠野誠一であり『斑さん』ではない。
それが、この娘を軻遇突智から遠ざけるための、最も確実で合理的な選択だった。
「……わかった。好きにしろ」
長い沈黙の末、片桐が静かにそう告げると、ガレージに一瞬、奇妙な空白が落ちた。
「え……?」
真白が目を丸くして固まった。
言ってはみたものの、これほどすんなりと話が通ると思っていなかったのだろう。
有坂もまた、信じられないものを見るような目で片桐を見つめていた。
当然の反応だった。
合理的な選択をする片桐という男が、リスクと面倒事を伴うこの要求を、大して考慮することもなく受け入れたのだ。
「本当に、いいの?」
拍子抜けしたような真白の問いに、片桐は短く「ああ」とだけ返した。
「ただし、外へ出る時は必ず有坂くんに同行してもらえ。それと、俺の仕事の邪魔だけはするなよ」
それ以上の言葉は不要だとばかりに、片桐は机の上の工具箱を引き寄せ、分解されたままの年代物の銃の部品を手に取り、黙々と修繕作業に戻った。
会話はこれで終了だという、意思表示だった。
有坂は、背を向けた片桐を見つめながら、微かな違和感を拭えずにいた。
(なんだか、片桐さんらしくないな……)
いくら真白が行き場を失っているとはいえ、あの片桐がここまであっさりと折れるだろうか。
相手の性別で考えを変えるような男だとは思えない。
それに、言葉では「好きにしろ」と突き放してはいたが、その受諾には、どこか抗えない義務感のようなものが滲んでいるようにも見えた。
六條というダイバーに会いに行ったのは蛭子の情報を得るためだったはずだ。
ならばもしかすると、真白を身近に置くことに何らかのメリットがあると踏んでのことなのだろうか。
片桐の真意を知らない有坂の中で、漠然とした疑問が形を作り始めていた。
だが、片桐本人が語らない以上、自分からそれを問いただしたところではぐらかされるだけだ。
ガレージに響くのは、片桐が金属パーツを磨く微かな摩擦音と、降り続く雨の音だけだった。




