表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
REPAIR  作者: 明星
残党
PR
60/68

第5話

「六條のところへ行ってくる」

早朝、片桐は短くそれだけを言い残し、事務所を出て行った。

有坂は、昨日から片桐が纏っている空気が僅かに違うことを感じ取っていた。

表面上はいつも通りに振る舞っているが、真白の話を聞いてから明らかに思い詰めている。

六條に会いに行ったのは、間違いなく『蛭子』の件だろう。

すでに死者が出ており、痕跡の目撃情報も増え、局地的には軽い混乱も起き始めている。

とはいえ、有坂自身は、蛭子に対して片桐のように何かができるわけでもない。

「……僕も、行かないと」

木箱や工具が積まれた薄暗いガレージで一人ごちると、有坂は身支度を整え、ゲートタウンの喧騒へと向かった。

片桐から託された、「真白が危ないところに近づきそうなときは止めてほしい」という言葉。

それは不器用な彼なりに示した庇護の意志であり、同時に現状において取れる唯一の策でもあった。

ゲートタウンの大通り。

そこは、生活雑貨や装備を扱う店が並び、一攫千金を夢見るスクレイパーたちの活気と欲望が渦巻いていた。

しばらく廃ビルの上から通りを見渡していると、真白の姿は簡単に見つかった。

彼女は、露店でジャンク品を広げる男や酒場の前にたむろする連中に、物怖じすることなく声をかけていた。

ラフな格好だが、遠目からでも顎を少し上げるような勝気な態度が見て取れた。

あれだけ手当たり次第に話しかけているのだ。

アビスへ連れて行ってくれる人間を探しているのは間違いない。

だが、現実を知らない若い娘が、ただ漠然と「アビスに潜れる人間」を探したところで、まともな相手が見つかるはずもなかった。

案の定、男たちは鼻で嗤い、からかい、中には堂々と彼女の身体へ手を伸ばそうとする者もいる。

真白はそれを強く振り払い、僅かに眉間にしわを寄せて再び歩き出した。

そんな光景を上から見下ろしながら、有坂は胸の奥がずしりと重くなるのを感じていた。

(片桐さんなら……こんな時、どうするかな)

彼女の勝気さこそが、今はまだ支えになっていた。

だが、その強がりが、結果的に彼女自身の望みから遠ざけていることに本人は気づいていない。

今すぐ下に降りて腕を引き、安全な場所へ連れ戻すべきなのか。

もう一度片桐のところへ連れていき、話をさせるべきなのか。

だが、今の自分には、彼女の「父親を探す」という思いを助けられるだけの力がない。

簡単に思えた「ただ見守る」という行為に潜む残酷さが、有坂をじわじわと締め付けていた。


二日目の朝。

片桐は昨日のことを何も語らず、一階の作業場で愛用の二本の短剣を黙々と手入れしていた。

刃こぼれを確かめ、砥石を当てる。

規則的な金属音だけが響く。

「六條さんには、会えたんですか?」

有坂の問いに、片桐は手を止めず「いや」とだけ短く答えた。

その後、重い足取りで再びゲートタウンへ向かった有坂は、崩れたビルや瓦礫の上を伝って真白を探し、大通りから一本外れた裏通りで彼女を見つけた。

彼女の足取りは、昨日よりも少しだけ重い。

大通りではまともな相手に見向きもされなかったのだろう。

気丈な横顔にも、隠しきれない焦りが滲み始めている。

日向から日陰へ。

彼女は望む相手を探すため、より治安の悪い、非合法を厭わない連中がたむろする区画へと足を踏み入れざるを得なくなっていた。

「だから、アビスに行ける奴なら誰でもいいって言ってんでしょ。誰かいないの!?」

薄暗い路地裏の入り口で、怪しげな情報屋らしき男に食ってかかる真白。

声にはまだ芯の強さが残っているが、有坂の目には、彼女が自らの思考に飲み込まれているようにしか見えなかった。

周囲の空気もまた、明確に変化している。

大通りの住人たちが向けていた「物知らずへの冷笑」は、裏通りに入った途端、「獲物を品定めする嘲笑」へと変わっていた。

彼女の強気な態度の裏にある無力さを見透かした連中が、遠巻きに値踏みしているのだ。

有坂は建物の屋上からそれを見下ろしながら、強く唇を噛んだ。

今ならまだ、強引にでも連れ帰れば最悪の事態は防げる。

だが、声をかけた後に続く言葉を有坂は持っていなかった。

「無駄だから諦めろ」と告げられるほど、自分は優れた人間ではない。

何もできない人間が何を言ったところで、彼女に響くはずがないのだ。

決断を先送りしたまま、有坂はただ影のように高所から真白を追い続けた。


三日目の朝。

ガレージには相変わらず静かな時間が流れていた。

片桐は昨日も六條を探しに歩き回っていたらしく、今日も同じように出かけるようで、コーヒーを啜りながら、「帰りが遅くなる」と出がけの有坂の背中に声をかけてきた。

昨日、真白が裏通りへ足を踏み入れたことを報告し、焦りを滲ませる有坂に対して、片桐はただ「危ない時は止めてくれ」とだけ繰り返したのだった。

夕刻。

灰色の空から、冷たい雨が降り始めた。

雨粒はゲートタウンの埃っぽい空気を地面に叩きつけ、人々の体温とともに僅かな気力すらも奪っていく。

入り組んだ裏通りのさらに奥深く、廃材が山積みになった薄暗い広場の片隅で、真白はついに立ち止まった。

濡れた髪が頬に張り付き、俯いて地面を睨みつけている。

三日間に及ぶ徒労と、容赦なく体温を奪う冷たい雨。

どれだけ気を張っていても、肉体の疲労とともに彼女の精神は確実に削り取られていた。

その時だ。

「あんた、アビスに潜れる奴を探してるんだって?」

雨に濡れるのを気にする様子もなく、一人の男が真白に声をかけてきた。

薄汚れ、所々に錆の浮いた粗悪な防具を身に着けたスクレイパーらしき男。

少し離れたトタン屋根の下で様子を窺っていた有坂は、いつでも飛び出せるよう脚に力を込めた。

男は明らかに親切な顔を装いながら、手掛かりという餌を使い、彼女をさらに人目のつかない場所へ誘い込もうとしている。

この街に来て日が浅い有坂ですら一目でわかる、あまりにも露骨で古典的な手口だった。

「アビスの奥底まで行けるベテランになら、心当たりがあるぜ。……すぐ近くだ。ほら、来なよ」

普段の真白なら、こんな見ず知らずの男の軽薄な言葉など鼻で笑って一蹴しただろう。

だが、三日間の空回りと雨の冷たさで、彼女の正常な判断力は失われかけていた。

張り詰めていた糸が切れ、藁にもすがるような思いが、彼女の勝気な眼差しを揺らがせる。

「嘘だったら……許さないわよ」

真白はふらつく足で一歩を踏み出し、暗い路地裏へと男の背中を追い始めた。

(……止めないと)

有坂はトタンの下から身を乗り出した。

根本的な解決策を持たない自分でも、このままにしていいわけがないことくらいは理解できる。

「……真白さん!」

有坂はトタン屋根の下から飛び出し、冷たい雨の中を駆け出そうとして――その足を止めた。

いつからいたのか。

どこにいたのか。

トタンの下から飛び出た有坂を取り囲むように、数人の男たちが音もなく立っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ